秋穂八十八ヶ所霊場

福楽寺では本堂内に6・7番札所が、本堂に隣接する地蔵堂(8番札所)と合わせて境内に3つの札所を擁しています。

JR新山口駅から車で15分ほど南へ走ると、そこは瀬戸内海を臨む長閑な田園地帯・山口市秋穂地区です。
人口約7500人の半島、秋穂地区は農業と漁業の町として知られています。そして実はこの秋穂、車海老の養殖に世界ではじめて成功した「海老の町」でもあるのです。

毎年8月下旬には、中道海水浴場で「海老狩り世界選手権」が開催されていますが、この「選手権」には全国各地から毎年数万人の応募者があり、千数百人が参加する盛況ぶりです。

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この秋穂地区と、隣接する秋穂二島地区を中心にして、写し四国霊場・秋穂八十八か所があります。小さな霊場ですが、その始まりはとても古く、伝統のある霊場です。
この霊場は天明3年(1783年)に遍明院第八世の性海法印が四国八十八ケ所を巡拝して、四国の各札所の護符と土砂を秋穂に大切に持ち帰り、持ち帰った護符を秋穂各地に供え、同時に四国札所の土砂を秋穂の相応しい場所に埋めて祈願し、その場所を「秋穂霊場札所」としたのが始まりです。

最初は理解されず苦労したようですが、徐々に協力者を得て、この秋穂の地に四国八十八ケ所の写し霊場が誕生しました。
「写し四国」としては国内最古、秋穂霊場の誕生です。

性海法印が秋穂霊場の建立を念願したのは、秋穂が古くより仏教の特に盛んな土地柄だったからでしょう。とりわけ他宗を圧倒して真言宗が隆盛を誇り、この地は「西の高野」とも称せられたと伝えられています。現在でも秋穂・秋穂二島地区には真言宗寺院だけで10ヵ寺を数える所以です。

札所には普段から県内各地を中心に参詣者がありますが、毎年旧暦の3月20日・21日は「お大師参り」として、各地からとりわけ多くの巡拝者がこの霊場を訪れ、各札所では地元の方によってお接待が行われます。福楽寺でも、巡礼の方には御供物、子供には駄菓子などの接待をしています。

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「お大師参り」2日目の午後には、一番札所の大師寺にて、秋穂の真言宗各寺院が集まって正御影供が厳修されています。

全行程は最短コースで50km強、徒歩で2日・自転車1日のコースです。四国や西国霊場は非常に距離もあって、巡拝も容易ではありませんが、秋穂霊場は非常にコンパクトな霊場です。ハイキング気分で巡拝しても気持ちがいいのではないでしょうか。

ただし、札所の半数以上は無人のお堂で道がわかりにくいと思います。
巡礼地図が役場や道の駅にありますので、利用してください。

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以下は福楽寺第12世・亮厳和上が、昭和29年に編集印刷した小冊子の全文です。旧漢字を改めて句読点も適宜打ちましたが、誤植等は基本的にそのままを掲載しています。

秋穂八十八箇所由来

秋穂佛都

秋穂の地は、嵯峨たる火の山・亀尾山を北に控へ、其の山脈西は平原山、日中山、朝日山、岩屋の山に流れ、東は大海山、経納山、熊耳山、夕日山、花香筈倉山に延び周防灘に突出し、沖に竹島・佐波島の勝景を有し、雲煙きり晴れかすみなき時は、遥かに豊後の諸山墨絵の如く映写し、風光明眉青松白砂の佳景である。
往昔、延暦年間には天台の開祖伝教大師、諸国巡化の途次宇佐八幡宮を潅頂し来りて、秋穂に本地垂迹の分霊を祭祀社殿を建立(後に秋穂中心地久米山に移し惣鎮守とす)、滞りて神社仏閣を多く建てられしと。
真言の高祖弘法大師は弘仁年中、山陰より萩・三隅・俵山を経て巡化滞錫、室積、宮島方面に渡られしと云ふ古跡伝説多々なり。
其の後、此の秋穂の庄は白河法皇の皇女宣陽院の采邑となり、薨去後、御室仁和寺御所より三河の僧正行遍、大納言僧正了遍等来秋滞在、幾多の寺院浄刹なぞ建立され、降りて大内氏全盛時代には此の清浄なる地景を賞みし寺院堂庵を建立、或は改築し、就中、亀尾山の中腹浄峰に古塔古墳一切経を埋め、西高野になぞらへたり(今の経納山是れである)。
先年井上円了博士西遊の際、此の秋穂の正八幡宮社側なる大師堂に詣でらる時、神仏軒を並べ荘厳の祭祀あるは稀に見る両部の当相であると、彼の西遊記に示されたり。此の秋穂の地よりは高野の平等院真浄、東室院の理海、心南院恵晃の学頭前官たる名僧知才、明治維新の先覚者兵部太夫大村益次郎、工部卿山尾庸三、絵画の泰斗山中秋帆等誕生傑出し、又産業上には田畑塩田漁港にて豊富なる佳郷である。

秋穂八拾八ヶ所の由来

秋穂の山村水廓に配置せる弘法大師八十八ヶ所の開基縁起を按ずるに、今を去る二百年前天明年間に、下村遍明院に天然性海と云ふ学徳兼備の住職あり。
四大不調身体微弱なる故に、別府温泉に保養さる。
折柄或る日、地獄湯の見物に出られ一々の奇観に驚きつつ生熱地獄に至り、頻りに睡眠を催したる故に其の堤、畔青草に石を枕とし暫く午睡されしに、其地獄の焔々たる沸湯の中に、黒髪紅顔の見覚へある様な女人の生首浮び、白波に押寄るが如く性海法印の元に救いを求めたる悲そうの声に驚目覚められ、法印は嗚呼不思議無記性の夢を見たるかと、夕刻宿泊の所に帰り見れば多くの人集り、騒然と葬式の用意、法印は不思議の念ひの中に尋ぬれば、此の家の婦人頓死せりと近隣の人々より聞く処に拠れば、婦人わ如菩薩の如く柔和を装ひたるも邪見貪欲にして、人々嫌忌せりと云ふ。
法印も旅情を痛めし事数度あり、滞在中に化導せんと懸念し居られたり。
夢と現状を目撃相合し、善悪因果の理法啻ならざる事、又造悪の者は堕ち修善の者は陞るの法語に忒ざる事に感げきし、愈々道心堅固に帰秋されたる上人、天利益罪消滅の為と、下村の戎屋作右衛門を伴ひ、三衣一鉢笈を負ひて四国巡拝を発起、出発さる。
阿州霊山寺一番の霊場より順次に讃州大窪寺八十八番を納め終り、又逆に霊山寺迄納め戻り、法印は巡拝一ヶ所々の霊場にて大師の慈光に触れ、霊鑑に打たれ御影と土砂を受け笈に納め撫養に出で大阪に渡り高野山に登られ奥の院に参詣、益々大師の冥鑑を受け霊光に浴し、其の土砂を頂きて大塔金堂壇上の一々の浄刹を拝礼し法悦歓喜、帰秋されて以来、遠近の衆生に遍く大師に結縁させ仏果を得せしめんと発願なし、時の庄屋有司、寺院、住侶に応援協力を頼み、秋穂東西両本郷と二島、名田島の向山を四国に疑らへ第一番を八幡社の境側に安置し、天田釈迦堂に二番と荒神社に十一番迄順次配置し、大海峠を越へて六角堂に十二、三番と青江、浦、下村、中野、黒潟を経て南、惣在所、禰宜、二島、大里より名田島岩屋山に八十三番を配り、上ヶ田、仁光寺、幸田に帰り、社近の宮の且観音寺に八十八番を置き、巡拝順逆の便利を計り、斯く山村部落の寺院、小社、家々の軒下と野原の浄き所に、受け帰りたる土砂を撒布し御影を奉祭され茲に秋穂の八十八箇所は初めて置かれたのである。
然るに釈迦に提婆、弘法に守敏と云ふことわざの如く、多くの無信者外道等より攻撃反対の障害厭追を受け、影像を取り捨て堂庵を毀たれしにもかゝわらず、撓まざる発起者の信仰と大師勧善懲悪の慈光とに触れて日を追ひ年経るに従ひ、反対者は崇信巡拝者と化し、立派なる堂庵建立或は改築され、巡拝の隆盛を来したり。
性海法印は祈願成就を喜び、法悦の内に文化九年三月十一日に七十一歳を一期として遍明院に遷化され戎作右衛門は剃髪法衣、身終る迄霊場を護持し巡拝を重ねしと云ふ。
大師は業病難病受けし身は八十八の遺跡に寄せて利益をなすとの誓願にもれず不治の難癒へいざりは車、盲目は杖に納て帰る等霊験の不思議少なからず、愈々隆盛を極めたるに就中安政年間の廃仏毀釈、明治維新の両部廃止、神仏引分、近々は明治三十三四年頃の県令小社堂庵の廃合、昭和宗教法案に基いする寺院仏堂の廃合の国法幾多の行鉞災厄を受けたるも寺院十三と堂庵六十五あり、尚ほ堂庵は寺院の飛地境外仏堂として基礎強く今日現存せり。
遠近諸方より大師の同行二人の杖に縋り巡拝するもの数十万あり、大に隆盛を見るに至る。有り難や同行二人の御誓いで納めて帰る今日の嬉しさの声、日々夜々に聞くのである。
此外に秋穂の寺院霊場には縁起因縁等多く有れ共、杜撰を避け繁を省きて唯茲に巡拝信者の栞に資す。
他日有志の大成に譲る。

大師特に八十八の霊場を開れたる起源

大師は御年六十二法蕩四十一にして承和二年三月二十一日に高野奥の院霊窟、金剛定に入り玉ふて百億無量に分身影向して有縁の衆生を摂取し利益せんと誓い、又第一條の遺誡には、我れ今生に暫くも住せし所には日々化身を降して有縁の衆生を加持護念し現当の所願を成せしめんとありつるに、特に八十八ヶ限定霊場を安置されたるは大師入唐求法の折柄定恵の神道力にて、釈尊説法の遺跡天竺の鷲峰山に八塔の霊場を巡拝され吾日本の諸人に普く結縁させんと其の八塔の土を持ち帰り、八の数を十倍し元の八塔相添へて八十八とし又衆生造悪の罪源たる見惑の四十四思惑の四十四、合せて八十八の煩悩を消除し仏果を得せしめんとの悲願に基づくのである。
聊か茲に信者の疑問に資す。

巡拝信者に告ぐ


毎年三月二十日二十一の両日には秋穂の結衆寺院住侶総出仕、一番霊場に於て高野山の教会正御影供大法要法式に準じ法要を厳修し、八十八ヶ所は総法楽を捧ぐ(俗に秋穂の千部経の法会と言ふ)。又六月十四五日の両日には東寺善通寺等の本山の誕生会に倣ひ厳粛なる法要を勤む。遠近よりの参拝信者立錐なき迄に結縁し居れり。

巡拝者は各霊場を慇懃に恭敬礼拝し、道中にありては規律の上に田畑の畔や家屋の軒辺りなぞ横切らず、道を道に本道を通行さるべし。

巡拝者は人なき堂庵に蝋燭や線香等献げらるる後仕末を能くし火災等に注意さるべし。

宿は至る所に求められるも、日の暮れざる内早く求めらるべし。然らざれば農繁期なぞ困らるる事あり。

宿にありては朝暮の勤行を怠らず、休憩所なり又弁当を召れたる後なぞ取り乱さぬ様に衛生上注意さるべし。

巡拝は岩屋山を始めに納め大河内九番を終りに納めらるも宜し。尤も九番を打ち納めとなるれば、大道駅には十四五丁ふもと二丁位の所に停留所場ありて防府山口方面直行出駅も便利である。

令法久住利益人天の為に九番霊場精舎にて沐浴焚香
法蕩七十四齢八十一の老僧亮厳謹書

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昭和二十九年一月廿一日印刷
同       廿五日発行

山口県吉敷郡秋穂町大河内北
編集人 原田亮厳
徳島県阿波郡八幡町大字切幡
印刷所 浅野本店

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