प्रज्ञापारमिता
~仏教のおはなし~

六波羅蜜と真言念誦

'20.12.14

仏法においては勝義諦たる真如大海に帰入することが成就である。これは理知不二かつ離言の般若への還源そのものであり、仏法の真髄はここに尽きる。この先はない。

しかし世俗にある我々は勝義だけでは道に迷う。「言語活動(言説)に依らずして、究極的なもの(勝義)は説示されない。究極的なものを理解せずして、涅槃は証得されない」『根本中頌』24・10。つまり言葉と世俗の実践を経なくては真如に随順することはできないのであるから、ここに世俗諦、依言真如としての仏道を記していこうと思う。

実践の前提として、人は三帰依(四信)、出離の心と菩提心が必要である。

「根本(自己の本性が自性清浄心・真如心であると信ずる)」「仏(仏に無量の性功徳あるを信じ礼拝供養する)・法(実践法としての六波羅蜜・真言念誦に大利益あるを信ず)・僧(自利利他の菩薩衆を信ず)」への信心・帰依である。
出離。いかなる好ましいものであっても、すべては移ろい崩れ去り、我々を執着や愛欲に縛り付ける因となる。だからそれを気に留めるな、捨て去れ。「またそれを得たい」と思わず、輪廻の中には何も好ましきものはあり得ないと考え、また悪しきものも真実にはあり得ないと考えて、頼りにならないものを頼りにならないと知る。輪廻と世俗を厭え。
この出離の心を胸において、次いで菩提心を起こすべきである。
菩提心とは、つまりはこういうことである。『三十七の菩薩の実践』に曰く。
「無始以来より私を愛してくれた母たちが苦しみもがいているならば、自身の幸せなど何になろうか。それゆえ、限りなき衆生を救うために菩提心を生起させ」て、「いかなる現象もそれは自身の心であり、心の本性は本来戯論より離れている。そのように理解して主客の諸相に気をとられてしまわない」。この三帰依(四信)と出離と菩提心の生起が仏道のはじめである。

菩提心の詳細については後述する。

さて、仏道は具体的には「止観」や「念仏」など様々な方法があり、どれも素晴らしい実践たり得るものであるが、ともあれ六波羅蜜に沿って進められるであろう。

勝義諦の真如とはつまり空性であり、般若波羅蜜である(一般に縁起=無自性=空とされるが、実際には無自性と縁起は世俗諦であり、それらは勝義には空であるという意味である。たとえば十二支縁起は世俗諦であり現実だが、それは妄念の形成過程を示す構造であり、実体としては空であり、波の如く、独立したものとしては実在しない。相依性縁起も言語認識による概念設定で無自性であるが、いずれにしても空性により成立しない。世俗や言語、概念、主客など相対的一切法は成立しない。それらを超えた不二・一法界・無分節の真如…しかも性功徳を内実とする大海、それを般若波羅蜜という)。この認識の完成が仏法の完成である。

他の五波羅蜜は世俗諦であるが、般若波羅蜜の認識なき五波羅蜜は世間の単なる世俗的行為であり、仏法の完成には導かない。般若波羅蜜に裏付けられた五波羅蜜のみが仏道を進める力になる。そして般若波羅蜜は五波羅蜜なくしては我々には知られない。五波羅蜜により引き出される般若波羅蜜のみが、まさしく空性たる真如の成就をもたらす。この六は一連の数珠のようなもので、ひとつも欠けてはならず、たとえば「布施」の中に他の五がすべて具足されていなくては波羅蜜にはならない。

六波羅蜜は「布施・持戒・忍辱・精進・禅定・智慧」である。「布施・持戒」は利他であり、「忍辱・精進」は自利、「禅定・智慧」は解脱を成ずる、つまり六波羅蜜で自利利他解脱を円満するとされる(『宝行王正論』)が、たとえば自利とされる精進波羅蜜においても利他の戒律実践が説かれているのであり、単純な図式化はできない。自利利他相即不二である。

なお華厳系統では、般若波羅蜜を開いた「方便・願・力・智」を加えた十波羅蜜もある。方便波羅蜜において真如への滅・戯論寂滅があり、そこにおいて「般若が優れた形で働いて、方便・誓願・力・智〔と呼ばれるのであって、四波羅蜜は般若と別ではない〕と理解すべきである」(『入中論自註』219)などと説明されるが、基本は六波羅蜜であるから、ここでは六波羅蜜に沿って示す。

さて、六波羅蜜はチベット仏教サキャ派のギャルセー・トクメー・サンポ『三十七の菩薩の実践』二十五~三十節がわかりやすいので、まずそれを掲げ、補足していく。

「【布施】悟りを得るためにこの身さえ犠牲にする必要があるのなら、外界のものなどなおさらに、見返りや成果を期待せず布施を行ずる。それが菩薩の実践である。【持戒】戒律を守らずして自利の完成はない。それでいて利他を成し遂げる願いをもっても笑われる。それゆえ、世俗の欲を放棄して戒律を遵守する。それが菩薩の実践である。【忍辱】善という財を求める諸菩薩を傷つけてしまう者もまた、尊い宝も同然である。それゆえ、あらゆる者に恨みをもたず忍耐を修習する。それが菩薩の実践である。【精進】自利のみ得ようとする声聞、独覚も、頭に移った火を消そうと努力するのを見るならば、すべて衆生のためになる功徳の源泉となる精進に励む。それが菩薩の実践である。【禅定】「止」を伴ったすぐれた「観」が煩悩を克服するのをよく知って、四無色定を超越した禅定を修習する。それが菩薩の実践である。【智慧】智慧のない五つの波羅蜜だけならば、完全なる悟りを得ることはできない。それゆえ、波羅蜜行を伴った三輪無分別智を修習する。それが菩薩の実践である」

布施波羅蜜。自らの種々の財を施すことであるが、菩薩の布施は空性を基本とした大悲心に基づく。二乗や凡夫の布施は得楽や苦の抑止のために行われる。つまりここに自利なのか利他なのかの分かれ目がある。

持戒波羅蜜。すなわち三業をもって他に利益をなす十善戒を守り抜くという誓願を立てる。不殺生戒・不偸盗戒・不邪淫戒を身戒、不妄語戒・不綺語戒・不悪口戒・不両舌戒を語戒、不慳貪戒・不瞋恚戒・不邪見戒を意戒とする。

不殺生…すべての生き物を無益に殺さない。恨まない、憎まない。排斥しない。
不偸盗…盗まない。他人の物を欲しがらない。
不邪淫…不倫をしない。異性に対して邪な思いを抱かない。
不妄語…嘘をつかない。
不綺語…きれいごとを言わない。
不悪口…悪口を言わない。
不両舌…二枚舌を使わない。
不慳貪…物惜しみをしない。ケチにならない。
不瞋恚…怒らない。イライラしない。
不邪見…仏教の教えを正しく学び、般若空の正しいものの見方をする。

十善戒は「三輪清浄の無所得戒」、つまり戒も利他行である。殺生から両舌を七不善というが、その対治の不殺生乃至不両舌を七捨と呼び、意三戒が七捨を動機づける基盤となる。

忍辱波羅蜜。特に怒りを断つこと。怒りはすべての資糧を破壊する。不瞋恚戒と関わる。

精進波羅蜜。善に努力する義であるが、これをふたつに分ける。

福徳の資糧・・・布施・持戒・忍辱
智慧の資糧・・・禅定・智慧

この「世俗と勝義・積善と離業」の双方に努力することを精進という。

禅定波羅蜜・智慧波羅蜜。このふたつは解脱を成ずる波羅蜜であるが、修道にあっては「禅↔慧」であって、相互に絡み合う一体的なものである。『大乘起信論』の如く止・観にそれぞれ配する考え方もあり、そのほうが恐らく正統的な考え方でもあろうが、今は禅定波羅蜜において観法、具体的には念誦と観想(水波観)を示す。但し、真言の観想念誦は観、念誦における三昧は止であり、また水波観そのものが実践であり智慧・般若仏母の現前であるから、これはそのままで止観双運、禅慧不二にほかならず、矛盾はない。

さて、真実義を決択する般若波羅蜜は勝義諦であるが、これは世俗のこととはある意味で隔絶している。というのも、仏陀(或は菩薩大士)と凡夫(或は初心の菩薩)は一水四見の如く、世俗を世俗諦として見るか邪世俗として見るか、勝義を知るか知らぬかという点で隔絶しているからである。海は海であるが、波に溺れるならば、海を忘却した波こそが世界なのである。彼にとって、海と波は隔絶している。

世俗と勝義については、基本的には三つに分けて考えられる。チャンドラキールティなどは四つに分けるが、いずれにせよ切り方の問題である。

その三つとは、「邪世俗・世俗諦・勝義諦」である。邪世俗とは生滅する妄念により間違えて認識した世俗であり、縄を蛇と見誤ったり、確認できない形而上学的な観念(神など)を実体視するもの、あるいは常断二見等であり、要は「世間一般の見方」であり、錯誤である。世俗諦とは言語化された「勝義への志向を持つ世俗の捉え方、教義」つまり依言真如であり、四波羅蜜もこれに立脚して成立する。世俗諦がなくては勝義は把握できない。究極的には認識の彼方である「離言真如」の勝義諦のみであり、邪世俗・世俗諦ともにすべて本来的には成立していないと見るのが仏陀である。主客分離の邪世俗・世俗諦は幻波のように成立していないのであるから、勝義諦・真如とは関わらない(が、別のものでもない)。それらはすべて世俗諦としてプロセス・階梯として現れるだけであり、登ったら捨て去られるものである。しかし世俗諦がなくては現世での用は為されないのであり、また仏陀であれ方便として世俗諦がなくては、そもそも仏陀とは何であろうか?

四つに分ける場合は「唯世俗」があり、これの解釈には他のものがあるが、ここでは如来が世俗を見渡す場合のことで、如実知見のことである。邪世俗→世俗諦→勝義諦を向上門とすれば、唯世俗は如来の向下門において働く観方であり、唯世俗として観ながら世俗諦として法を説くわけである。

さて、世俗諦と勝義諦、依言真如と離言真如を繋ぐのは、禅定波羅蜜である。戒・定によってのみ、世俗の凡夫に智慧が現前するのだから。つまり(これも実は世俗諦であるが)禅定波羅蜜によってのみ、「階梯を登る」ことができる。四波羅蜜は階梯であり、禅定波羅蜜は登ることである。階梯なくしては登れない。登ることなくしては階梯に意味はない。

禅定波羅蜜の行い方には多様な方法があるが、外形的にいかなる形態を持とうと、観法が基本である。

ここでは、マントラの道を説く。

【中略】

以上のマントラと観行(水波観)を双修しつつ念誦するのであるが、大悲・空智・菩提心の成就をこの「禅定波羅蜜」によって達成する。

以下では、五鈷杵に示される菩提心について、大悲・空智と併せて述べる。

【中略】

まとめ

実践においては、「出離」を初門とし「大悲」を根本動機として(「世俗の菩提心」を「空智」に貫かれた「六波羅蜜」において「真言念誦」として)修習する・・・のが基本的な枠組みとなる。世俗の菩提心の内実としては、「布施・三解脱門(空観)・四無量心」を「完全に実践する為に仏陀とならんとする心」である。これは勝義菩提心を根拠として成立する。

三学に沿ってこれをまとめると、まず戒学は十善戒である。

定学は世俗の菩提心の修習(真言念誦)であるが、この世俗の菩提心の内実は「布施・三解脱門(空観)・四無量心」を「完全に実践する為に仏陀とならんとする心」であり、世俗の菩提心の中に出離(捨無量心)・大悲(慈・悲の両無量心)、六波羅蜜(布施など)の実践、空観も含まれており、すべて相互に繋がり合うので、世俗の菩提心の修習には理念的に仏道のすべてが含まれる。実際の真言念誦の観想においては、空観四無量心を据えていくことは前述した。
慧学は勝義菩提心、つまり「いかなる現象もそれは自身の心であり 心の本性は本来戯論より離れている、そのように理解して主客の諸相に気をとられてしまわない」・「相対的観念を離れた絶対的な心の本性・光明=明智(↔無明)、真如」、一切空性たる真如、しかも無量の性功徳を内実とする理智不二法身の成就そのものである。

結局は三学すべて、特に定学には六波羅蜜全体がその根底に置かれるので、「出離」「大悲・世俗の菩提心」「六波羅蜜」は具体の実践においては一体である。