प्रज्ञापारमिता
~仏教のおはなし~

議論

'12.04.08

議論することは大切でしょう。でも、「やり方」があります。

特に仏教…に限らず、こと宗教絡みのテーマは議論が白熱して収集がつかなくなることが多々あります。醜い罵倒や「水掛け論」の典型を観察したければ、その対象は宗教論争に限る…というのが、残念ながら実態ではないでしょうか。
東亜における歴史論争についても同様なんですが、中途半端な知識と「こうあるべき」という前提(それは「事実」云々ではなくて大抵は感情論に立脚している)を互いに振り回し、もはや「議論・討論」ではなくて壮大な独白のぶつけ合い…結局は声が大きい方が勝ち、ウンザリして撤退した方は「敵前逃亡」と決めつけられて敗者の烙印を押される…。
そんな不毛な「論争」を何度、目にしたことか。特にネットの世界で甚だしいのですが、実は「専門家」と言われる人たちの間でも事情は似たようなもので、メンツや信念などというものの前には、客観的な事実など吹き飛んでしまう場合が多いようです。
だからこそ、釈尊は「戯論を離れよ」と言われたのでしょう。はっきり言って、ほとんどの「論争」なるものは、無意味です。時間の無駄です。

「正しい議論」というものは、当然あるでしょう。
たとえば仏教思想の展開というものは、そのような議論の中で熟成されてきました。大乗仏教の大成者である龍樹菩薩がどれだけの論争をヒンドゥー系哲学者としてきたか、あるいは日本でも南都・天台の論争などは、結果として双方に益をもたらしました。
しかしそれは、「正確な知識とソースの提示」に基いた理性的な討論が基本だったわけです(まぁ、常にそうであったとは言いませんが)。証明不能な「信念」など持ち出して振り回し、声を大にしてあいてを威嚇して打ち負かすような愚劣な手法は取らなかったし、そういう手法で「勝ちを奪った」者も、いずれは相手にされなくなるものです。

仏教者として、私自身がこれからどう法を伝えていくのか…ということを考えた時、上記のことはよくよく肝に銘じておかなくては…と思います。私もバカですから、どうしても議論になれば「勝ちたい」「言い負かさねば」という感情が湧いてきます。また、「ここで負けたら自分の考えが否定され、間違った知識に基づいた相手のとち狂った暴言が是とされてしまう」という思いが、どうしても出てきます。単なる信条の違いならともかく、歪曲された知識を振り回す人は、どうしてもスルーできない…。
が、しかし、そういう人と議論しても、実は無駄です。これは痛いほど、わかっています。相手には(そして恐らく、自分にも)「正解」が既にあるわけですから、どうせ合意はできないわけです。結局「勝つか・負けるか」の世界。アホらしいですが…。

仏法を伝える時は、つまり経典に基づいた事を、地味に話していくことがベストなんだと思います。「私の考え」というものは所詮「私の考え」でしかないですから、他者と完全に共有できるわけではない。仏法は、自他不二、つまり「他」はある程度は経典として提示できても、「自」はそれぞれです。本当に。ですから、法師の役割は、「他」の部分を言葉の限界の範囲内で提示して、あとは黙って自行を日日実践していくことに尽きます。それをそれぞれの「自」がどう受け止めて実践して考えるか、それは銘々其々。「自」の部分を振り回してしまうと、すぐに不毛な論争に発展して、もっと大切なこと、仏道を歩く、ということが阻害されてしまいます。

まぁしかし、喋りたい、勝ちたい…という煩悩は、なかなか強いものがあります。誰しも自分の考えや存在を否定されたくはないですから、防衛意識というものが出てきてしまうんですよね。困ったものです。