प्रज्ञापारमिता
~仏教のおはなし~

覚醒

'16.04.01

一般的に言うところの「私」とは、たとえば過去から現在までの鏡に映った諸々の事象の集積物のことでしかありません。
人はこの映じたものとその記憶をルーティンに組み上げて「私」を構想し、それを如何に「素晴らしく」するかに精を出しています。物が映る以前の「鏡自体」を意識することはほとんどありませんし、意識したとしても、それはどこかに別の「鏡」を妄想・措定して、積み上げた集積物のひとつとして「認識」しようとするだけでしょう。

もっとも、「鏡自体」を「認識」することなど出来ない相談ではあるのですが。

何しろ、「認識」しようとする「本来のあなた」こそが「鏡自体」であって、常識的に「対象として認識」するには、その「鏡に映った何か」を見るしかないからです。
しかし、「自分自身は鏡自体であり、映ったものはすべて妄念であったのだ」と知らない限り苦の輪廻は終わりませんし、本質的にこの人生で大切なことは、これを「覚」すること「だけ」です。

例えば具体的な人生の苦を一々解決することも大切ですが、それは悪夢を見ている人に対して、その悪夢を多少なりともいい夢に変えていくようなものです。それだけであれば、本質的には大した意味がありません。
もちろん悪夢よりはそのほうがマシでしょうし、私も何も社会福祉や事業が無意味だと言いたいわけではないのです。
悪夢の最中にある人は意味もわからず狼狽し混乱し、自分が夢の世界にいることなど「夢にも思わず」、ますます悪夢の泥沼にはまっていく一方でしょう。ですからその悪夢を軽減・生滅させることは大切です。

しかし良い夢でも、所詮は夢です。

大切なことは、「私が」そこから目覚めて、事の本質を覚することでしょう。すべて仏教者の行う事業・福祉は本来、ここに集約していくべき働きでなくてはならないし、仏教でいう「慈悲」が世間の「やさしさ」とまったく違うという理由は、まさにこの点にこそあるのです。
ここを看過した単なる「世直し運動」は、一般的な政治経済・社会団体の仕事ではあるのかも知れませんけれど、仏教(あるいは宗教)は、そういう運動の有効性を認めつつもその限界を厳として指摘し、人間の本来性と還るべきところを十年一日の如く指し示し続け、「夢から目覚めよ」と言い続けることが重要かつ唯一の役割だと、私は思っています。