प्रज्ञापारमिता
~仏教のおはなし~

無我と霊魂と輪廻

'14.07.25

高名な仏教学者である奈良康明師の文章を読んだのですが、ひっかかりました。
浄土宗出版社の新刊書です。

輪廻や魂が実際に「あるか・ないか」という事は別にして(ここでそんな水掛け論をするつもりはありません)、「無我」であればそれらは成立しない、という論が理屈としてどうして成り立つのか、私にはわかりません。
「無我であれば不変の霊魂など認められない」という論旨のようですが、それがそのまま「魂はない」ゆえに「輪廻はない」という結論に、どうしてなるのでしょうか。

私とて仏教においては「不変の実体がない」ことなど百も承知ですが(不変の実体を是認すれば「常見論」となり、異端です)、しかし現実に「この私」というものは「ある」わけです。これは縁生の現象・一時的な「状態」として「私という対象化されうるもの」が一時的に成立している、つまり「空」として「ある」わけで、それまで否定するのは「断見」「虚無論」であり、「無我論」とは異質のものになるでしょう。
霊魂が実際にあるかどうか、その問題は形而上学的なものですから私も断定は敢えて避けますが、しかし「論理的帰結としてそれらは絶対に成立しない」という考え方はおかしいのでは、と思っています。

すべて無常・無我である。しかし現象としての身体や「私」は、ある。そして、そのレベルでの霊魂があったとしても、別に問題はないでしょう。無常の、かりそめの、縁生の無我なる霊魂。
少なくとも、「不変の霊魂はない」から「縁生の無常なる霊魂もない」ゆえに「輪廻はない」という事は、理屈として成立しないと思うのですが。これが成立するのなら、私の身体も世界も、文字通り「なにもない・無」ということですよ。そんな断見的な思想は、仏教ではないと思いますけれども…。