प्रज्ञापारमिता
~仏教のおはなし~

無我と霊魂

'08.05.02

・質問

仏教は「無我」なんだから、魂なんかないでしょ?

・答え

たとえば「犬がいる」と言うと、「それは実体論だから嘘だ」と言いますか?
「犬は確かに目の前にいるけれど、自性を守る実体としてそれがあるわけじゃなく、犬というものは縁によって仮にここに存在しているけれど、無常のものだ」と言うべきではないでしょうか?
まさか目の前の犬の存在自体を否定して、「犬なんてものは存在しない、まったく無だ。いると思うのは妄想だ、嘘だ」と言うのでしょうか? ありもしない犬なんかに噛まれても、その人は病院にも行かないのでしょうか?
「魂がある」「霊がある」と言うと、どうして人はそれだけで一足飛びにそれを「実体論」と決めつけ、「魂なんか妄想だ、ないのだ、それが仏教だ」と断言してしまうのでしょうか。

諸法無我ということは、諸法の存在を前提しているわけですよね?

諸法が現前しているけれど、それは実は無自性なんだと。
だから、無自性としての諸法は、実体は「ない」けれども現象・縁生としては「ある」わけです。
無我の「無」は単なる「ない」ではなくて、有無の二辺を離れた中道です。
それを「無」というなら断見、「有」というなら常見です。

魂というもの、霊というものについて、それは実証できないものですから語らず、無記というのが釈尊の立場ですが、 単純な「無」であれば、釈尊は「無」と述べている筈です。
でも、そうはしていない。そこに重大な意味があります。
しかし無論、不可視のものですから、それを肯定もしない。仏道の本筋と離れた、証明不能で無意味な論争が起こるだけだからです。

結局のところ、理論上、魂や霊は無自性の縁生のものとしての諸法として「あって」も、何らおかしくはありません。むしろ、輪廻説を肯定する立場からは、そういう「縁生の魂」「無常なる魂」が現象としては「ある」としないと、理屈が立たないと思います。