प्रज्ञापारमिता
~仏教のおはなし~

馬と牛

'18.08.15

お盆には、精霊棚というものを作ります。
最近はこれを作る家庭も少なくなりましたが、かつては各家庭で作られていました。
精霊棚はお盆の期間中、台の上に真菰のござを敷き、位牌・香炉・灯明・花を飾り、お供え物などを置きます。地域によって形は異なりますが、基本的にはこのような感じで祀ります。

またこの精霊棚には、キュウリとナスで作った「馬・牛」を供えます。
ちなみに、キュウリもナスも仏教とともに日本に渡って来た野菜で、原産地はヒマラヤ周辺だと言われています。

さて、精霊棚のキュウリの馬には「ご先祖が速く帰って来られるように」、ナスの牛には「ゆっくり帰って行けるように、またたくさんの荷物(=お供え物や供養の心)を載せられるように」という意味があります。

ところで、このキュウリとナスですが、「馬や牛」に見えるように足をつけようとすると、ある程度「曲がった」もののほうが相応しいのです。しかし最近のスーパーの野菜はどれもカタチが均一で、あまり曲がっていません。ナスもキュウリも、まっすぐなものがとても多いのです。
これではあまり、馬や牛っぽく見えないのではないでしょうか?

私たち人間も、本来は様々な個性や特徴、性格、趣味嗜好、人格を持ったものです。
ところが、「社会に有用」「集団の中に相応しい」ように、自分を決まった「型」にはめ込んで、同じような生活や嗜好、考え方になるよう、「みんなと同じ」ようになろうとしていないでしょうか。
これでは、つまらないです。
色々なカタチがあり、色々な性質があるからこそ、その特徴を活かして様々な個性的で充実した生き方ができるのではないでしょうか。似たような、同じようなカタチばかりだと、結局は「どれでもいい」「どれでも同じ」で、いくらでも「替え」の利く大量生産商品のようになってしまうのではないでしょうか。

人には様々な個性があります。
それは、均一的な「まっすぐなキュウリ・ナス」なのではなく、それぞれ個性的に曲がった野菜なのです。そしてその「曲がり」が、人の魅力というものです。
「まっすぐ」で「同じように」というのが、たとえば学校や会社や社会で求められること…確かに「みんなと同じように」というのにも、大切なところはあります。集団の「型」が、「文化」に昇華していくのですから。
ただその中でも、やはりひとりひとりの「個性」、「曲がり」を大切にしていくことで、人は精霊棚のナスとキュウリのように「曲がりを活かした馬と牛のカタチ」になっていくものです。

自分の中の欠点のように見えるところ・自信のないところ、もちろん逆に長所や自信がある部分、そういう「自分の曲がり」「個性」をしっかりと理解して、それをどうやったら「活かしていけるのか」をよく見極めて考えていくこと、それもとても大切なことで、せっかく生まれて生きているのですから、自分を愛し・活かして、充実した毎日を送りたいものですね。