प्रज्ञापारमिता
~仏教のおはなし~

学び

'21.03.15

古の人は道を学んで利を謀らず
今の人は書を読んで但だ名と財とにす

昔の人は学問によって名利を求めなかったが、今の人は書を読んで名声と金銭に換算している。

「性霊集一」

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学ぶことは大切です。
そもそも私達は何も知らず、言葉さえもわからないまま生まれてきて、親や周りの人によって「学び」の第一歩を踏み出しました。学ぶことからすべてが始まったのです。

私達の人生はその後も死ぬまで常に学ぶことに裏付けられています。学びを止めたときに、人は終わります。生きているうちに本当の意味で「学ぶことがなくなった」と言えるのは、ブッダ・覚者になった時だけです。
仏教では、覚った人を「無学」と呼びます。「学がない人」ではなく、「もはや学ぶことがない人」です。その逆の私達のことを「有学」と呼ぶのです。

さて、「学ぶ」と言っても、学ぶ内容には色々なものがあります。それぞれ大切なことばかりですが、もっとも大切なことは「生きて死ぬこの私とは何か」を見極めることです。この一生に留まらない、この生命の実相を把握して、「死んでも死なないワタシとは何か」を見つけ出すことが最も大切です。真に学ぶべきは、これを措いて他にありません。
ところが私達はいずれ死ぬことを何となく脇にやってしまって、如何にたくさん稼ぐか、如何に知識を積み上げるか、如何に他人に褒められるか、如何に他人に好かれるか、如何にプライドを満足させるか、如何に自分がこの世をうまく渡るか…のために学ぶことだけをしてきました。

繰り返しますが、それも大切なことです。

しかし、最終的には、そのような学びは死ぬ時には用済みになるような話ばかりです。後生には役に立ちません。
ですから、そのような「如何に自分の役立つか」という学びをしながらも、「生きて死ぬこの私とは何か」「死んでも死なないワタシとは何か」をいつもじっくり考え、先人、つまり釈尊や弘法大師の教えを学ばなくてはなりません。
まさに名利とはまったく違う真の「学び」です。

しかし人間と愚かなもので、そのような「学び」すら、如何にたくさん稼ぐか、如何に知識を積み上げるか、如何に他人に褒められるか、如何に他人に好かれるか、如何にプライドを満足させるか、如何にこの世をうまく渡るか…のために使ってしまいます。
自慢するために、偉く思われるために、仏教を利用してしまうこともあります。
これは悪い僧侶や変な宗教の話ではなくて、私も含めて、油断するといつでもそうなってしまいます。それだけ「如何に自分の役立つか」という意識は根強いのです。

だから何を学ぶにせよ、まず第一に「役に立つか立たないか」という気持ちをすっぱり捨て、ただこの自分の本当の有様を見極めて苦を越えること、そして実はそれは「わたしひとり」ではなく、他者への慈悲が根本にはなくては「学べない」ことを知り、名利ではない学びを私達はコツコツと死ぬまで続けていきたいものです。