प्रज्ञापारमिता
~仏教のおはなし~

工夫の大切さ

'18.08.01

自心に工夫して自心から出さねば役に立たぬなり
人に聞いたことを言うて来ては一生役に立たぬなり
何底の事でも自心から出た事なら随分と役に立つなり

「慈雲尊者法語集」

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途上国に対する援助というものがあります。食料援助や人道的医療援助、開発援助など様々ありますが、援助の中でも良いものと悪いものがあるのではないでしょうか。
援助者の名誉欲のため、経済植民地化のため、相手国の政治家などの私利私欲を助長するものは当然ダメでしょうが、善意から出たものであったとしても、時には害悪になることもあります。
たとえば「食料援助」ですが、無論、今現在飢餓や飢饉で人が死に直面しているような場合は、緊急援助として食料をどんどん援助していく必要があるでしょう。しかし慢性的な食料難の地域に対しては、それだけではどうしようもありません。割れた鍋にどんどん水を注ぎ込んでいるようなもので、落ちてきた水を飲むことはできますが一向に貯まることもなく、蛇口が閉まれば元の木阿弥になってしまいます。
こういう場合は、農業技術の移転、土地改良や灌漑設備の技術支援、また子供たちへの教育支援など、「蛇口が閉まっても」自分達で水を確保できる体制を作れるような支援をしなくてはなりません。
自分達でやれるようにならねば、そこに誇りも持続性も自立も生まれないのです。

そして、こういうことは「援助」と名付けられるのですが、決して上から下へ恵んでやる、という性質のことではありません。環境変動にせよ経済体制の問題にせよ、先進国の都合が歪みとなって、経済的あるいは自然環境的に弱い部分に皺寄せが行っている場合も多く、こういうことは全人類共通の問題です。すべての事は繋がって、相依って縁起し、無関係なものなどひとつもありません。

いずれにしても、お互いに関わりある者として支えあい、同時に皆が誇りをもって自立していくこと、これが肝心です。依存しあって傷を舐めあうのは支えあいではなく、自滅への道です。自立して、あるいは自立せんと思う者が互いに助けあうのが、支えあいの大切なところでしょう。

慈雲尊者の言葉は個人レベルの話ですが、根っこは同じです。この言葉は決して「他人など関係ない、自分がすべてだ」ということではなく、人はみな他者から学び模倣もし、助けられながら、しかしそういったものを漫然と受け止めて満足するのではなく、「工夫して」自分の血肉として消化し、己の責任において表現して行動したものだけが本当に役に立つものである、ということです。

私たちは色々なものに援助されて今、生きています。最初は親から、そして友人や先生や周囲の人たち、社会や国もそうです、それからご先人の遺された文化や土壌、仏様の働き、本当に助けていただきました。それを無自覚に受け止めるだけでは、底の割れた鍋みたいなものです。ただ流れていくだけで、何も貯まりません。そうではなくて、それをしっかり受け止めて感謝して消化して身につけて自立し、そうして次にはお互い様の社会に生きていることをしっかりわかって、お互いに支えあい助けあう、そんな生活になるようにしていきたいものです。