प्रज्ञापारमिता
~仏教のおはなし~

仏道と学問

'15.10.17

仏教は学問ではない、という話。

僕は仏教学は好きだしその類の本も読みますが、基本的な立脚点が違いますから、別に仏教学がこうだから何がどうだ、とまでは考えていません。参考にし、また尊重はしますが、何が何でもそれに依拠するわけではない。
たとえば「縁起」について、学問的には釈尊と龍樹がまったく一致しているかは疑念があるのですが(縁起・無自性がイコール空であるか否か、相依性縁起の問題とか)、僕は全く一致している、と言うのみです。それを基盤に大乗の仏道は成り立ちます。それが正しいか間違っているかは議論の対象にはなりません。まさに同じであるという地平で我々は2千年やってきたし、その道筋に間違いはなかったと認知していますから、それで良いのです。
その上で仏教学を知り、学問的にそれは違うという見解を学び、その齟齬を受け止めながら、そのズレに立ち上がる一致を見出して控え目に会通していくわけです。学問と違い、仏道はすでに明らかです。明らかな道に確信もなく、世の終わりまで流動的に変化する学説に右往左往して、いったい人はいつ道を歩き始めることができるでしょうか。
また、釈尊伝における記述、たとえば四諦や十二縁起は釈尊の自説です。後世の付加とは見做さない。相互の伝記に違いがあったとしても、どちらも事実であり、読むごとに如何なる加持を感得し教訓を得るかがすべてであり、文献学的な差異の追求は我々の道においては存知しない領域(聖書の四福音書解釈と似たような話かな)。
その仏教者の基盤に立ちながら、仏教学をなるべく客観的な学問として理解し、理解してから腹に落とす(理解せずに腹に落とすと、あらゆる意味で学問と仏道を混同する)。
いかなる部分でも様々な解釈があって良いし、仏道にもバリエーションはあるし、時や場所により変化していくのもまた事実だけれど、しかし今ここに生きる僕自身(とは何だろう?)の仏道において、その事実はあまり意味を持たない。
仮に報身仏が顕示されたからと言って、それを学問的に分析して解釈し否定するか肯定するかを決めるのだろうか(それが悪い顕現か否かは仏教学ではなく仏道に照らして判断せよ)。目前の事実に包まれ涙を流し一致を知り、それを受け入れて生きていくべきではないだろうか。