प्रज्ञापारमिता
~仏教のおはなし~

仏教の知識

'20.04.06

もし本源を了せざれば学法益なし
いわゆる本源とは自性清浄の心なり

心の清浄なる本源である仏を悟らなければ、仏法をいくら学んでも利益はない。

「一切経開題」

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仏教というものは、学べば学ぶほど非常に奥が深いものです。

学問としての「仏教学」というものがあり、皆さんがどのようなイメージをお持ちかはわかりませんが、仏教は学問として学んでも際限がなく、また難解です。
余談ですが、一般的に学問は大きく分けて「人文科学」「社会科学」「自然科学」の3つに分かれますが、仏教学は人文科学の代表的な学問のひとつで、その歴史も非常に長いです。また仏教学は「近代仏教学」と「宗学」という分野に分かれています。

さて。
仏教学は、確かに「仏教とは何であるか」を知るためには非常に大切なものですし、役にも立ちます。僧侶であればある程度の素養も必要ですから学ばねばなりませんし、僧侶ではない方でも、仏教を深く知るために専門機関などで学ばれている方はたくさんおられます。
しかしこのような仏教学を、知識を積み重ねることを目的に学んでいるとしたら、ほとんど無意味な学問になってしまいます。
そもそも仏教は、知識を積み重ねることに重きを置いたものではありません。仏教は、「この世に私を導く仏の大いなる存在と力(加持力)が満ちていることを知り」、突き詰めれば「自分自身が本来仏であり、仏の性質を完全に備えており、仏の特徴である慈悲と智慧を発揮して生きていく」ことを教えるものです。そのためにはある程度の知識はあるに越したことはありませんが、いくら知識があっても、もっと大切な「慈悲と智慧」、とりわけ「慈悲」=「思いやりの心」を達成したいという志が欠けていれば、そんな知識には価値がまったくありません。むしろ仏教学なんか知らなくとも、深い慈悲の心を持っている人の方が「仏教の理想」に遥かに適う存在です。

知識は大切です。しかしそれはあくまでも「慈悲と智慧」の完成を自分自身がしっかりと達成するための手段であって、目的ではありません。

このようなことは学問だけではなく、たとえば仏壇の祀りかたの知識や、いわゆる様々な「マナー」なるものについても同じことが言えて、そういうものにこだわりすぎて「知っている私は偉い」「知らないおまえはダメだ」のような風潮も散見しますが、それに捕らわれすぎて本質、つまり「心のあり方」を忘れてしまったり軽視してしまうようでは、そんな知識はまったく無駄です。

仏壇の祀りかたやマナーというものも基本的には意味があるし、形式の重要性は一般に思われているよりも大きなものがありますが、学問と同じで、それが「何のために」という視点を失ってはなりません。そこを見失わなければ、あらゆる知識は力になります。そこを見失えば、あらゆる知識は無意味です。