प्रज्ञापारमिता
~仏教のおはなし~

我慢と忍耐

'19.11.03

「我慢」とは、大辞泉によれば、

【一】
感情や欲望のままに行動するのを抑え堪え忍ぶこと。辛抱すること。
【二】
① 〘仏〙 七慢の一。実際には存在しない我が自己の中心にあると考え、それを根拠として行動する思い上がった心。
② 我意を通すこと。わがまま。強情。

…と定義されています。

一般的には【一】ですが、ちょっと微妙にずれているかな、と思えます。自分の行動を抑制して…というか、むしろ「抑制させられて」というほうがしっくり来る場合があるかも知れません。
仏教的には【二】①ですが、現在一般的に使われる用法とは違います。

いずれにせよ「我慢」と言う場合、辛抱にせよ我意を通すにせよ、その主体としての「自我」を前提として中心に置き、外部と対比して考えていく感覚があります。
そしてこういう考え方は苦を招くのみであり、誰も幸せにせず、悪しき業を積み上げていくことにしかなりません。

では仏教においては、「我慢すること」は悪なのでしょうか。

はい、上記の定義に則る限りにおいて、それは悪です。

では自由気儘にわがままでいいのかというと、もちろん違います。
「我慢」にせよ「わがまま」にせよ、どちらも中心に「私」「私が」「私の」がどっかり腰を据えて居座っています。ここが問題なのです。

仏教における実践の基準に「六波羅蜜」というものがあります。「布施・持戒・忍辱・精進・禅定・智慧」の六つの実践ですが、この中の「忍辱」が、いわゆる「我慢ではない、正しい忍耐」のありかたを示しています。
これは自我を振り回さない忍耐のことで、我慢とは違うものです。この正しい忍耐こそ、慈悲であり苦を超える仏教者の道であって、自他共に幸せになる道です。

つまり我慢というものは自我に引きずられた感情であって、苦をもたらす。忍耐は自我の束縛を脱した慈悲の行であって、苦を超えて幸せをもたらす。
そこはたとえば「自他交換の瞑想」などで涵養していくべきことであり、知識を得る得ないの問題ではなく、あるいは出来る出来ないではなく、実践するかしないか、の問題なのです。

『般若経』には、こう書かれています。

須菩提よ、求道者・偉大な人は初めてさとりに向う心を発してから、さとりを得る身となるまで、その道程において、たといだれかが瓦・石・刀・杖で危害を加えようとしても、その時、彼は、怒りの心を瞬時も発すことがない。
およそ、求道者たる者は、次の二種の忍耐を修めるべきである。一には、たとい人びとが悪口をいい、謗り罵ったり、あるいは、瓦・石・刀・杖で危害を加えたりしても、怒りの心を発さないように修めることである。二には、あらゆるものは不生・不滅の空のものであるとさとること、すなわち「無生法忍」を修めることである。
たとい人びとから悪口をいわれたり、危害を加えられたりしても、その時かれは、このように考察すべきである。「わたしを罵る者はだれか。謗り咎める者はだれか、打ちのめす者はだれか。罵りや謗りを受ける者はだれか」と。そして、かれはあらゆるものの真実の相を、このように考察すべきである。「すべてのものは究極的に空である。事物もその実体がなく、人もその実体がない。すでに事物に実体がないのであるから、どうして人に実体があろうか」と。

これは「敗北主義」ではありません。
理不尽に抑圧されることを甘んじて受け入れることではありません。あくまでも、このような心を基本として、争いの心を去り、万人が幸せになるにはどうすべきかを考え行動していく基盤となるものです。「我が我が」と闘争することは、一時の成功を通過した後に必ず敗北をもたらします。これこそが「敗北主義」です。

『三十七の菩薩の実践』には、こう書かれています。すこし抜粋します。

11.
あらゆる苦しみは自らの幸せを追い求めることより生じ
悟りは他者のためを思うことより生ずる
それゆえ、自己の幸せと他者の苦しみをまさしく交換する
これが菩薩の実践である

14.
ある者が私に対してさまざまな非難中傷を
三千大千世界に遍くふれ回ったとしても
慈しみの心で繰り返しその者の功徳を賞賛する
それが菩薩の実践である

16.
わが子のように大切に育てた者が
私を敵のように見なしたとしても
病気のわが子に接する母のようにより一層の愛情を注ぐ
それが菩薩の実践である

18.
生活に困窮し、常に人より軽蔑され
ひどい病苦や悪霊に憑かれても
それでも一切衆生の罪業と苦を受けて疲れをしらない
それが菩薩の実践である

20.
自身の中にある怒りという敵を調伏しないなら
外の敵を倒しても憎しみはますます増大するばかり
それゆえ、慈悲という軍隊で自身の心を征服する
それが菩薩の実践である

最初から「自我」の不毛さを離れることはできません(「自分など無いのだ」ということでは決してありません。縁起・無自性・空として「自分」は厳然とあります。ただその自分というものは、仮に現象するものであり、大切ではありますが、究極の拠り所にはならないかりそめ無常のものです)。
「自我」を離れて自由になるためには、だから11.のように「自他交換の瞑想」実践します。最大の敵は20.にあるように、「怒り」です。
これを続けていれば、少しずつ、「我慢」から「忍耐」に変化していくでしょう。数日で変わらないかも知れない。10年かかるかも知れない。死ぬまで無理かも知れない。でも3秒やれば、やはり3秒は前に進んでいくのです。そこが大切なことです。