प्रज्ञापारमिता
~仏教のおはなし~

'16.11.30

空というのは理論ではなく、むしろあらゆる理論を解体するものである。その解体の運動を空という。解体だけでおわるなら虚無であるが、空はそのまま有無相対の世界を再構築する運動でもある。再構築する前と後は一見すると同じようなものだけれど、空を透過した有無相対は自性を守らない。
真如というのは、その運動それそのものを言語レベルで切り取って存在論であるかのように言説化したものに過ぎない。別のものではないけれど、同じでもない。
もし何かしら存在論的に「真如・仏性」が不空のものとしてあるとしたら、それは運動しない。運動しないものは他者と関係を持たない。持たないものは私にも関係がない。
真如も仏性も、なにかそんなものがア・プリオリに転がってるわけじゃない。それを探しても、そんなものはどこにもない。樹木の中に火を探すようなものだ。それは縁生であって、縁起により現生する。擦れば木片に火がつくように。
同時に、流動性が真如だからといって、ではブッダがまた凡夫に戻ることがあるのか、言われるとそれは否。運動性であること自体を把握して自覚的に運動している者をブッダというのだから。単に「滅尽」した者は真如と同化したのではなく、したと思い込んで眠っているだけか(そのうちまた動くであろう)、真如とは無関係の無になり果てて考慮の外になったか、いずれかである。しかし誰かが「それ」「について」思いを巡らせることができるのならば、それは絶対無ではなく用を保持しており、用があれば体も相もあり、運動性の枠内にある。もし「それ」がその時に智そのものでなかったならば、ふたたび流転の日は来るのであろう。