प्रज्ञापारमिता
~仏教のおはなし~

縁起無自性空

'19.12.17

仏身の裡に地獄を見 七宝の上に玉を看ず

この身は仏である。それにもかかわらず、地獄のような悪を演じている。宝を抱いていながら宝を知らないからである。

「性霊集一 喜雨の歌」

…………………………

僕たちは生まれたときには既に自他分別の巷にあり、知らず無明妄想に馴染んでしまっている。だからそれが常態であり当たり前だと感じ、喜怒哀楽や分断された存在認識を前提にしてものを考えたり観察したりして、苦を引き起こしながら右往左往している。
この身は実は清浄無垢な仏そのものであると知らず、すべては汚れを本来的に担ってあるものと思っている。
しかし汚れや闇はない。汚れや闇がないならば、それに依存して成り立つ概念である清浄や光も実はない。それらはすべて自性なく、相対的な仮のものに過ぎない。
絶対の無分節、認識不能なその体を仮に無自性と名付け、そのあるがままの相を空といい、用を縁起というだけで、すべて言語道断の無分節の、「 」。
それを体解すれば仏、実体視して掴んだり離したりするのが僕たち凡夫だ。つかむものやつかむ人などないのに。