प्रज्ञापारमिता
~仏教のおはなし~

バクティとカルマ

'11.04.18

ヒンドゥーにおいては、信仰・実践の形態に4つの方向性があるとされています。

ラージャ・ヨーガはいわゆる瞑想の道。
カルマ・ヨーガは行為の道。
バクティ・ヨーガは信愛の道。
ギャーナ・ヨーガは智慧の道。

これは仏教においても非常に参考になるというか、実質的に仏教の実践もこの4つに収斂されているように思います。日本仏教で考えても、ラージャは禅や止観、三密行。カルマは律。バクティは浄土や法華。ギャーナはすべてに通じていく般若の道。配当が適切かどうか自信ないですが、いずれにしてもこれらの道は仏教においても斟酌されるべきでしょう。

今回はちょっと、バクティとカルマについて考えてみます。

バクティは、簡単に言うと熱烈な神・本尊への信仰です。他の何をも捨て置き、ひたすら信心と愛慕の心で自らを対象に投げ出し切ってしまうという信仰の形。まさに浄土信仰の形と同じです。日本ではこの道を「易行」と言います。

しかしこれ、果たして「易行」でしょうか。

そりゃ、口で「南無阿弥陀仏」「南無妙法蓮華経」と言うだけ。一見すると簡単です。座禅や密教行法と比べたら、形はとても簡単です。しかしそれをもって「易しい」とは決して、言えません。
ヒンドゥーでバクティの一例として、チャイタニヤの流れがあります。クリシュナ信仰です。
これは全世界すべてクリシュナであり、理不尽な出来事もすべてクリシュナの恩寵であると信じ切り、どのような困難もクリシュナの顕現として心から喜び、愛し、深く深く、不幸であれ幸せであれ、病気も戦争もすべてクリシュナの掌、クリシュナの限りなき恩寵として喜ぶ、というのが、そのバクティです。
クリシュナは万能・全知の存在の主宰者、否、存在がクリシュナです。つまり、この世のすべてはクリシュナである以上、どのような望ましくない出来事や存在であれ、それはクリシュナとして信愛の対象です。
これを完全に信じ、疑いの心を微塵も挟まず、常に至福の中に生き続けていく。
いついかなる時・状況であれ、「ハレー・クリシュナ」です。いついかなる時でも「南無阿弥陀仏」。これです。

これ、果たして「易行」でしょうか。私には無理です。

思うにこの道は、理屈で考えても歩けません。実際に目前にクリシュナが表れて啓示を受ける、くらいの出来事がなければ、とてもじゃないですが不可能な信仰だと思います。知識や経験なんか、何の役にも立たない。ものすごい境地でしょう。

カルマ・ヨーガも同じ。
普段の行為において義務を果たすことで成就に至るといいますが、基本的にはすべてを与え尽し、結果をまったく度外視して、日常のあらゆる行動をすべて「神」に捧げ尽す道。簡単に言いますが、これも困難です。あらゆる点で自分が地に堕ちても関係なく、喜びと奉仕の心すらも捧げ尽して自分のものとせずに与え尽くしていく。こんなことが可能とは思われない。大難行です。
仏教においても「戒」というのがありますが、これもただ「規則を守る」とかいう生半可なことではなく、これは誓願であり、インド的な文脈で「誓願」というのは「サティヤ」であり、「何があってもそれを守り通すことで、その誓願が真実の言葉となり、成就に至る」ことですから、ビタ一文の「まけ」もありません。「不殺生」というのは文字通りの不殺生であり、虫であれ何であれ、心に「殺す」という観念すら懐かない完全無欠の不殺生でなくてはなりません。ウソ、不倫、あるいは怒りもそうです。すべてを完璧に守り抜かなくてはならない。これが「戒」「誓願」の本質的な意味で、これが曖昧だと「サティヤ」にならず、意味がなくなります。日本の「言霊」とちょっと近い感覚もあるかも知れませんが、普通の人間の及ぶ境地ではない。

こういう事を考えていますと、本当に、仏教あるいは宗教の実践というものの何と恐ろしい事かと思います。
ほとんど不可能なことをやり遂げていく。そこにしか、有意の果はなにももたらされない。
確かにちょっとかじってお勉強するだけでも、人生に何かしらのいい影響はあるでしょう。これも宗教の大切な役割であり、効用です。しかしこれは本質ではない。この本質に至る前の「道徳的」「倫理的」あるいは「ちょっといい気分」程度の段階で留まっているのが、現在の世界の宗教のだいたいの状況ではないでしょうか。日本仏教に至っては、その段階からすら滑り落ちつつある。
いや、この段階にあった事が、今まであったのでしょうか。

私はもちろん、まったくもってダメです。
このような仏教の本質的な厳しさ、実践の過酷さに対して、まったく能力も覚悟も持ち合わせていません。
しかし、だからと言ってお茶を濁して「まぁまぁ」ということでは、はっきり言って僧侶やってる意味もないでしょう。仏教の意味もないでしょう。「本当の仏教とは」と大上段に構えて他を批判する言説がネットなどでもまかり通っていますが、少なくとも大乗仏教の立場、インド以来の滔々たる思想・宗教の流れに沿った大乗仏教の立場からは、まずはこの自分が果たして「カルマ・サティヤ」あるいは「バクティ」の理想においてどれだけ届いていない存在であるのかを自覚し、どうすればその境地を今生で少しでも、ほんの僅かなりと開顕できるのかを問うべきです。
私も人生の半ばを過ぎてしまいましたが、改めて考えたとき、残された時間のあまりの少なさと、自分自身の無能さに絶望的な心になります。時間も存在もすべて空であり…などという事はアタマでは何となく、そうかとは思います。しかしそれを自分のものにする境地には、どうも遠い。まさに、凡夫。度し難い縁なき衆生です。

残りの人生、如何に歩いていくのか。
これからが多分、苦しいのだろうなぁ。この宇宙あるいは全存在が喜びと平安と至福に満ちたものであると、それを「わかっちゃう」宗教的才能に恵まれない私は、これからもあちこちぶつかりながら、悩んで、苦しんで、そうして死んでいくのでしょう。その時、今より少しでも「存在のひみつ」の流れに沿えていたら、とれほど幸せかなと。そのために、これからも鈍臭く、格好悪く歩いてまいります。