प्रज्ञापारमिता
~仏教のおはなし~

言葉と人と

'13.04.30

昔クリスチャンだったころ、牧師先生が「聖書の御言葉は誰が語ったかではなくて、何が語られているかを考えなさい。この牧師や宣教師が尊敬できないからと言って腹を立てたりせず、御言葉は御言葉としてとらえなさい」と言っていた。
まぁ、たとえば正論吐かれた時に「そうかも知れんがお前が言うな」と考えるのではなくて、虚心坦懐に「その通り、すんません」と考えなさい、ってことにも通じるわけです。
で、私はそれはそれで正しいと思い、今でもできるだけそう考えるようにしていました。

でもどうなんだろ。
本当にそれって、正しいのかな。

少なくとも、たとえば僧侶の立場で法話するとき、これが「言い訳」になってないかな。「自分は不出来で碌な生活態度でもないし、修行もできてないけれど、今やってる話は仏教の正論だから、私を見ずに言葉を聞いて」というのが、果たして正しい方向性なのか。
一般的な「耳に痛い話」であれば何でもいい。受け止める側が「人を見ずに言葉の内容を見る」のは立派な態度だけけど、仏法あるいはキリスト教でも何でもいいけれど、宗教的なところになった場合、それってダメなような気がする。
法話や説教は単なるお話ではなくて、それ自体が秘蹟であり灌頂であり修行であるという、極めて宗教的な意義を含んでいるわけだから。

カトリックあたりで、洗礼やサクラメントを授けるときに、その司祭が不信心あるいはアンチキリストの心を持っていた場合、その秘蹟が有効か無効か、という議論がありましたが、もしかしたら無効なのではないかと思う。もちろん確かめられない部分だから受者に責任はないかも知れないけれど、やはり聖霊がそこになければ、カトリック的には無効なんじゃないだろうか。もちろんそこも含めて、信仰による神の救済によって最終的には是とされるかも知れないけれど、秘蹟の現場という限定された空間においては、やっぱり無効というしかないんじゃないのだろうか。

それと同様に、あるいはそれ以上に、仏教においては宗教者・僧侶の資質というものが絶大な意味を持ってくるのではないだろうか。受戒や灌頂というところだけではなく、個々の僧侶の日日の活動において、たとえば葬儀や法事もそうだし、法話もそう。言葉の中身だけではなく、それを伝える者の人格や思想って、決定的な意味があるのではないだろうか。なにしろ「言葉の伝達」はそれ自体が全的な仏の妙用であり、自他不二であるべき修行の現場でもあるわけだから。

近代的な考え方は、結局「文書・言葉でロジカルに伝える内容がすべて」なのが当然だけれど、本来はそうじゃなくて、「何かの伝達」というのはもっと巨大な、全体的な構造や言葉以前の真如の全的な移譲である、のじゃないかなぁ。
もちろん単なる宗教的な知識の伝達や、なんとなくいい話を聴いて啓発された、という点では、話者の資質などは重要ではないかも知れない。でも、そうじゃない部分にこそ、本質があるような気がする。