प्रज्ञापारमिता
~仏教のおはなし~

葬儀・布施

'10.07.19

イオンが葬儀に進出するらしい…というのは知っていましたし、そうなると布施にも定価をつけて来ることはわかっていたことです(それが「単なる目安」であっても、一覧表にしてしまえばそれは「定価」として認識されます)。それに対して仏教界が反対して、世論(サイレント・マジョリティ&ネット世論)は「坊主叩き」に向かうこともまた予想できます。
それもこれも、布施というものの意義についてしっかりと説明・実践して来なかった寺院の責任が大でしょう。口では「お気持で」と言いつつ、「相場以下」だと「ナメてんのか!」と文句を垂れる実態が、残念ながら一部の寺院に存在しています。これじゃ、「布施=料金」でしかなくなってしまいます。

もうひとつの原因として、葬儀が葬儀社主体になり過ぎた、という点があろうかと思います。
葬儀社はどうしたって企業ですから、利潤追求が基本です。商売上「明朗な料金体系」を明示していくことは当然で、あまりにもこのやり方が葬儀の裏側を支配し過ぎてしまうと、寺もその商論理に飲み込まれてしまい、結果として寺院も利潤団体に変貌していきます。少なくともそう見られてしまいます(中には積極的に利潤追求寺院を目指す「僧侶」もいるようですが…)。

いずれにしても、寺院サイドに「信心」「知識」「実践」がなく、家業・商売としての寺院経営に堕してしまっている現実が多少なりあるのではないでしょうか。そうでないなら、ここまで寺院が信頼を失うこともなかった筈です。
もし惰性・商売で寺院経営しているとすれば、こんなインチキな虚業はありません。そんなところから何十万円も料金を「請求」されれば、私だって「支払う」気にはならないでしょう。坊主不要論を唱える気持ちもわかります。

仏教を実践し・伝道し・伝持し・学ぶための場が、寺院です。僧侶はそれを中心になって推し進めていく「教職者」です。そういう場の維持管理と教職者の生活の為の源が布施ですから、少なくとも寺院を利潤機関にしてしまい、教職者としての気持ちを失った僧侶に対しては、布施をする必要はありません。
ところが現実には「義務」としてそれをせざるを得ない状況があるわけですから、「悪貨が良貨を駆逐する」如く、すべての寺院が不信感を持たれてしまい、布施がぼったくりの料金であるという観念が蔓延してしまうことになるのです。

志ある寺院は、布施の意義をもっと伝えていく努力をすべきですし、自らも布施の本義に則った考え方をするべきでしょう。他人には布施の原理原則を説きつつ、自らはその多寡に不満を述べるようでは、まったくもって僧侶の言動として不適格です。

もちろん経済的な裏付けがなくては、寺院や檀家さんたちの先祖の供養の場の維持は不可能になりますし、ひいては仏教界も成り立ちません。
僧侶はしっかり行学をし、檀信徒や仏教徒の皆さんは、布施の本義に乗っ取りながら布施を行っていただきたいものだと思っています。