प्रज्ञापारमिता
~仏教のおはなし~

臨終と通夜

'12.10.06

仏教においては、寿命と体温はイコールなので、体温がある限りは生きていると考えます。つまり、何時何分死亡、ということは言えません。徐々になくなっていく体温を見守りながら、みんなでゆっくり見送るのであり、「いつ体温がなくなったか」は、明確には言えません。
だいたい、「いつ死んだか」というのは、時代や文化や都合によって案外あっさり変えられてしまいます。脳死か心臓死かなども、そういう「都合」で基準を決めよう、という話であって、つまり客観的で普遍的な「死の瞬間」なんかありはしません。
繰り返しますが、仏教では体温は寿命とイコールなので、医者が「ご臨終です」と言っても、実はほんとうにはまだ死んでいません。もっと「死」には時間の幅があるのです。
「中部経典」というお経に、このことが書かれています。

(五根の拠り所は意であり、意は寿命によって存続し、寿命は体温によって存続し、体温はまた寿命によって存続する)ゆえに、「友よ、寿命と体温と意識という三つの事柄がこの身体を離れるとき、この身体は棄てられ、投げ出され、心のない木片のように横たわる」

だから仏教の立場では、脳死については、少なくとも「脳死は人の死では絶対にない」と言えます。心臓死や呼吸停止ですら死とは認めないのですから、脳死はまったく死んでいないのです。
でも当人の意思で「捨身布施」をすることは良いのだと思います。利他のために自分のものを投げ出す動機であれば、これは自殺にはなりません。でもそれは数ある布施行のひとつであり、誰も強制されるものではないですし、まして法律で規定されたり定義されたりするようなものでもありません。

ゆえに、「死の瞬間」とは、断じて呼吸や心臓の停止ではなく、まして脳死でもなく、蝋燭の炎が最後に小さく弱くなり消えたその瞬間、体温が低くなりそうして完全にまったくその暖かみが消えてしまうその刹那のこと(その刹那は第三者には「客観的な確定」はできません)で、実際問題としては、見守るものが間違いなくそうなったと受け止めたその時のことなのです。
死ぬとは、機械や医者の宣告によって決められるのではなく、徐々に消えていく寿命=体温の変化の中で、少しずつ「死に向かっていく」事態の推移そのもの、そしてそれを受け止めていく残されたものの相互の関わりが、死ぬと言うことなのではないでしょうか。

以上を頭に置きながら、「通夜」について考えてみたいと思います。

まずそもそも通夜とは、夜通し寺院や御堂において法義を語り合う儀礼または行事のことで、葬送儀礼とは直接には関係のない言葉でしたが、釈尊が入滅されたとき火葬前夜に弟子たちが法について確認しあった故事があり、これが現在の通夜の源のひとつになったと思われます。この場合も特に儀礼云々はなく、釈尊の教えと遺徳を弟子やきわめて近い縁者が確認したものであり、またごく内輪の出来事であったと思われます。

現在広く行われている「僧侶が読経をする通夜」ということの起源が上記の故事に関わるのと同時に、古代日本には殯という制があり、それも影響をしていると思います。殯についての説明はしませんが、埋葬や火葬の前に一定期間、遺体を安置して儀礼を行うという感覚は、日本人にとって異質なものではなく、ごく自然なものでしょう。
問題はその「形」であって、戦前まではあまり僧侶が通夜に出仕するということはありませんでしたし、現在でも僧侶のいない通夜を継続している地域はあります。「本来のカタチ」ということなら、これがそれです。
なぜ行かなかったのか、ということに関しては様々な説があるようですが、仏教的な観点から考えてみたいと思います。

まず、先ほど言いましたが、「人はいつ死ぬのか」という点について。
今は医者が「●●時間●●分、ご臨終です」と「死亡時刻」を提示しますが、仏教では自発呼吸が止まり心臓が止まったら死んだ、というふうに考えるわけではなく、最終的に亡くなるのは、体温が失せて完全に冷たくなってからのことでした。つまり、死には時間の幅があります。

枕経というものがあり、現在では「死んだらすぐにあげるお経」とされていますが、上記を考えれば、実は枕経の段階ではまだ「死んでいない」。つまり「死にゆく者」に自覚させて仏道に引入するものです。
そうして本来の通夜は、遺族が「近親のみ」で、死につつある者を静かに見守りながらその成仏や善趣への輪廻、あるいは往生を祈りつつ、死への過程を腹に落としていく時間です。
古来、通夜に喪服は着ない、近隣の者は香典を持参しないなどの習慣があったことは、これらの意味において理解されると思います。
そうして通夜が明けると、その人は死ぬ。通夜が明けるまでは、「まだ生きている」のですから。

生きているうちにすべき儀礼は枕経で尽きています。次は亡くなった方への引導ですので、この流れからは、通夜に僧侶が行く必要はまったくなく、また行くことで「近親者だけで静かに見送る」という通夜の本義を見失う可能性もあります。

しかし現実問題、業者主導の葬儀式、あるいは社会状況の変化によって、おそらく全国のほとんどの地域では僧侶は通夜に行っていると思われます。
これが常態化した現代、「伝統を守る」という姿勢だけでいいかは微妙です。しっかりと説明すれば納得していただけると思いますが、恐らく一般参列者や親戚の中には、「坊さんが手抜きしとるだけじゃないか」と不信感を抱く人も多いかも知れません。これは寺院不信ひいては仏教不信に繋がるかも知れず、単に「伝統だから」では通じないと思われる難しい問題です。

社会状況の激変期にあたり、伝統を守るのか時流に対応するのか、ここに正解はないですが、お寺も、また檀家さんひとりひとりも、改めてよく考えてみる必要があると思います。私も考えています。