प्रज्ञापारमिता
~仏教のおはなし~

善哉

'19.03.23

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始めあれば終りあり
生ある者は死あり
合会は離るることあり
良(まこと)に以(ゆえ)あるかな

始めがあれば終わりがある。生があれば死がある。会えば別れがある。これらは真実である。

「性霊集八」

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このお寺には犬がいます。名前を「善哉」と言います。「善哉」というのは「善き哉(よきかな)」で、お経では仏様を称える場合などに使われる言葉です。
平成二十年六月に生まれ、生後一ヶ月でお寺にもらわれて来て、十歳になります。お寺へ参詣に来られる方や檀家さんにも可愛がってもらい、それなりに幸せに過ごして来られたと思いますが、今、善哉は最期の時を過ごしています。毎年境内で参拝者を迎えて来た「お大師まいり」まで生きるのはもう難しいと思います。
私たちには子供がありませんので、善哉が子供みたいなものです。また、妻とふたりで秋穂に来たのですが、そのほとんど最初から善哉も一緒で、言わばこのお寺を三人でやって来たようなものです。
ですから、致し方ないとは言え、この時間を過ごすのは寂しく、また苦しむ善哉を見るのも非常に辛いものがあります。

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弘法大師も、生前に智泉という弟子を亡くし、「哀れなる哉 哀れなる哉 また哀れなる哉 悲しい哉 悲しい哉 重ねて悲しい哉」と、生死や別れは道理であるけれどもやはり悲しいものである、という言葉を残されています。
ただただ理屈でクールに「そんなものだ」と言ってしまうのは慈悲がない。ひたすら「つらい悲しい寂しい」で日を過ごすのは智慧がない。慈悲と智慧、どちらも大切な心のあり方です。今できることをやりながら、慈悲と智慧のふたつをしっかりと持ち、一日、また一日を大切に過ごし、感情を殺さず、同時に感情に流されない、そんな生き方をしていければ、きっと誰かを見送り、誰かと別れたあとも、その「誰か」とその後もずっと繋がり続けることができるのではないかと、そう思いながら日々を過ごしています。

生きている限りは、別れはあります。今、私は善哉との別れに直面していますが、祖父祖母、友人など、先に逝った人もいます。いずれ、親とも別れます。どちらが先かはわかりませんが、妻とも別れる日が来ますし、最後には自分がこの世界とお別れです。
しかしその時が来るまでは、一日一日を大切に、心を成長させて慈悲と智慧を育みながら、最後は穏やかに手を振り別れられるよう、良い毎日を過ごして参りたいと思っています。

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善哉は3月24日深夜に亡くなりました。
生前みなさんに可愛がっていただきまして、ありがとうございました。25日夕方に火葬して見送りました。

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