प्रज्ञापारमिता
~仏教のおはなし~

夜叉の絵

'11.10.19

無智のものは夜叉を画きて自ら画き還って自ら怖る
衆生は三界を造って自ら煎じ還って自ら煮る

愚か者は自分で描いた夜叉に怖れる。
衆生は自分で苦悩の種を作って、それを煮え湯で煎じて飲食している。

「宗秘論」

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龍樹菩薩の『大乗二十頌論』にも、「絵師が非常に恐ろしい夜叉の姿を自ら描いて、恐れおののくように…」とありますが、この喩えはよく使われるものです。
夜叉というのは仏法を守護する一種の「鬼神」ですが、もともとは人を食らう者であったともされていて、恐ろしい存在でした。

その恐ろしい夜叉の絵を描いて、出来上がった絵を見て自分自身で恐れおののく…というのは、もちろん非常に愚かな話です。

愚かな話なのですが、私たちも日常生活において似たようなことをやっています。
自分の勝手な思い込みで、「あの人は私のことをこう思っているに違いない」「これだけしてあげたのだから、きっとあの人は私を愛してくれるだろう」「私は美しい(賢い・お金持ちだ)から尊重されるべきだ」「私は不細工(頭が悪い・貧乏だ)から、きっと嫌われるだろう」と、自分で勝手に妄想を膨らませたり、あるいは「コロナウイルスはもっと強力になってみんな死んでしまう」「コロナウイルスなんか大したことはないから遊び回っても良いだろう」などと自分で勝手に思い込んで「現実を描」こうとしています。
そうしてそういう思い込みがいつしかどんどん大きくなり、自分の考えを縛り始め、「もうこれ以外はダメだ」となってしまい、揚げ句には他人も縛ろうとしはじめます。

自分で勝手に描いたものに振り回されるわけです。
ありとあらゆることが、自分で描いた妄想ばかりです。生まれてこの方、勝手に描いた自分の絵に縛られ振り回されて、私たちは生活しています。

にも関わらず、そういう「絵」、つまり勝手に作った思い込みを大事なものだと、これまた思い込んで、後生大事にまるで「薬」のようにいつまでも飲み続けているのです。そうやってどんどん、思い込み・妄想が増大していきます。

そういうことではなく、絵は絵であり現実ではない、勝手に描いた絵は描かれたものであって、それはまったく現実ではない、ということをしっかり理解しなくてはなりません。
絵を絵であるとわかり、絵の下には真っ白なキャンバスがあることを自覚して、そこに私たちは色々絵の具で何かを描いているに過ぎない。死ぬときにはそれらの絵はすべて消されます。わずかな間しか存在しない、泡沫の、陽炎のような絵です。
そういうものに惑わされて、真っ白なキャンバスを意識することもなく、描かれた勝手な思い込みの絵にただただ振り回されるのが人間ですけれど、本来あるべき自分の心、真っ白なキャンバスのような汚れのない光輝く自由自在な心、それを仏性・仏の心と言いますが、そのような清らかな心こそが自分自身であるとしっかりわかって、その上で生きている限りは慈悲の心で、夜叉の絵(自分の欲望の絵)ではなく、他者のための絵を自在に描いていくことができれば、きっと幸せで満足のいく人生となっていくであろう、というのが、仏教の教えであります。