प्रज्ञापारमिता
~仏教のおはなし~

墓問題?

'16.07.11

以下はあくまでひとつの問題提起で、お考えはそれぞれあるでしょう。今は過渡期だから、正解の考えを導くのは一層難しいかもわかりませんが、僕が正しいとか間違ってるとか言うのではなく、多角的に考える時期に来ているのかな、という意味で、ひとつの試論みたいなもんです。

正直、墓の問題をあまり仏教の問題と結びつけ過ぎるのもなぁ、とは感じる。墓は別に仏教のメインの問題ではないし(キリスト教でもイスラームでも神道でも共産主義者にも墓あるし)、供養の問題とも直結してるわけじゃない。墓や遺骨の問題は文化慣習の問題の比重が大きいのでは…と。
釈尊は「遺骨の処理は在家に任せよ」と言われたので、葬儀自体はアーナンダが指示を出したりマハーカッサパが取り仕切ったりしたものの、遺骨の分配にはタッチしなかった。
つまり、寺に墓があったとしても、墓が寺の存在理由ではなく、あくまで供養をする場に墓があるというだけで、それがなくても供養は成り立つわけです。
まぁ、墓石自体を開眼して一種の仏塔として祀ってるから、僕たちは墓を仏像として拝み、それに併せて納骨された所縁の方々の菩提を祈るわけですが、法界塔だからそこに骨がなくても実は供養には支障がない。遺骨を物神として拝むわけではないから。
だから墓や納骨形態の変化やら何やらについては、単に変化を否定肯定するのではなく、そもそもの供養とは何かとか、輪廻や浄土とは何かとか、そのあたりさえ外さなきゃ、あまり深刻に考えなくても良いのではなかろうか、と。

無論、遺骨については尊敬と感謝をいだいて、時代や状況に従うにしても、適切に取り扱うのが人の道かとは思いますし、その中で寺院に納めて回向して欲しいという感覚は汲みたいものです。遺骨が供養や信心の入り口になるし、仏塔を拝む功徳にも繋がります。
要は「遺骨崇拝」だけではない、更に深い供養や信心の世界への機縁になることもあるし、またそこまでではなくても、先人に思いを致す場になること自体は悪いことではないので、寺院は墓を守りますが、ただ、墓=寺院・仏教ではない、とだけは言っておきたいかな、と…。

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誤解をされたら嫌だから重ねて言いますが、墓は大切なものです。粗末にしろとか捨ててしまえと言ってるわけではないことはわかっていただけると信じますが、ただ、必ずしも仏教固有の問題なわけではなく、形態の変化は今までもかなりあったし、これからもあるだろうというということです。
あまりに供養と骨を直結させ過ぎるのはおかしいけど、もちろん供養や回向には絶大な意味があります。うちの寺には基本的にお墓はないですが(永代墓はあります)、それで供養ができないとかレベルが下がるとかはないし、なんなら遺骨のない方の供養もしますからね。
そのうえで、やはり縁のあった人達の身体の一部を納めた仏塔ですから、カタチはどうあれ、遺骨ももちろん、大切にはしたいもんですね、と。

以上を踏まえて、既存の墓には情緒や便宜以上の意味があるのかどうか。

それはあります。

墓石は仏像と同じ開眼をしてますから、あれは尊形ですので、遺骨云々以前に仏塔だから意味はあります。信仰の対象であり、善知識というか。
遺骨がそこにあるというのは、その仏塔に納まって守られていると可視化する場なんで、無意味とは思いません。
仮に成仏されていたら法界塔婆と一体なんで礼拝するのみだし、輪廻していたらば、その先で善き境涯になるようそれを通して回向する可視的な三昧耶形だから意味はあります。
ただ、遺骨自体を物神にするわけではないし、遺骨がないからって供養回向できないわけじゃなし、既存のカタチにはそこまで固執しなくても構わないかとは。

ただ、カタチはやはり変わります。時代や地域、文化により。
その中で如何に供養回向するか。大切なのはそこであり、既存の形態を固守することが重要だとは思っていないんです。