カタチは大切
'17.02.24最近は儀礼や「カタチ」というものの評判が悪い。
「カタチじゃない、心だ」ってなもんで、手を合わせたり礼拝する行為を軽くみて、「気持ちがあれば良いでしょ」と。それが法事や葬儀への無意味感や軽視につながり、結果として皮肉にも形骸化を促進して、「やっぱりダメじゃん」とマッチポンプ的になって切り捨てていく、という悪循環。
さてさて、それほどにカタチは無用なものか。
そもそも文化はカタチであり、言語思考も文法法則というカタチに立脚している。社会のルール、法律、あるいは慣習すらも一定の様式であり、僕たちの思考や行動のすべては、実はカタチありきなのだ。カタチがなければ、行為も他者との関係も構築不可能。
そのカタチを通して、カタチ以前のナニモノかが表出してくる。
儀礼というのは文法であり、それを読み解けばナニモノかがうっすらと見えてくる。そういう意味では、非常に意味のあるものだ。軽視するのではなく、読み解くように努力し、また説明をしていくほうが有意義だし、面白い。
また、形式は心を規定する。
実は心というものは不定形でだらしがなく、制御も統御もむずかしい厄介なものだ。そして心が混乱すると、必ず振る舞いや言葉も混乱して来る。逆もまた然りで、実は心と形式は不離一体であると知らなくてはならない。
その心を制御するには、心そのものを考えてもうまくいかない。形式、言い換えれば「思考と行為の文法」を形式的にでも実践することで心を制御したほうが、何倍も楽なのだ。
大切なのは、「心と形式は表裏一体」であると知ること。これを分けてしまうならば、「心が大切」と言いながら大したことも考えずしもしない間抜けになるか、やたら形式主義的で中身のない阿呆になるしかない。