प्रज्ञापारमिता
~仏教のおはなし~

認知と解体

'10.08.20

たとえば、怒りの感情によって苦しむ人がいる。

その時、「慈悲の心を成長させなさい」という類いの応答をする僧侶や人が、案外、多いのではないだろうか。もちろんそれは間違っていない。正しいだろう。そしてまったく役に立たない正しさでもある。

その怒りの人にとって、目の前の世界には心を通して怒りという現象が最優先に生起していて、善い悪いではなく、現実に「そうなのである」。世界も、自分も。
そこに「慈悲は善であり怒りは悪である」という、思考を要しない絶対の基準で枠をはめて、納得もプロセスも無視した強制を心に強いたとして、果たしてどういう結果になるだろう。
これは怒り以外の、ある種の欲求や妬みや願望なども同様だと思われるけど、いきなり慈悲やおもいやりや無執着などの「正義」を基準にして自分を断罪するのでは、そこにまともな決着はつかないのではなかろうか。

まず、自分に怒りがあり、欲望や執着があることを、善悪の判断以前にまずは発見して認めること。心理療法じゃないよ。セラピーの話じゃない。現実にそういうものが否応なく「ある」ことを発見して認める、というだけの話。
そしてそれを、「これは何だろうか」と徹底的に観察し、こねくりまわし、丸裸にしてしまう。どういう姿で、どういう作用があるか。そしてその怒りや執着や欲望を捨てるのじゃなく、丸飲みして、「これこそが自分だ」とまず認める。善も悪もない、偽りなき自分の姿だ。ただ、見よ。
さぁ、そうして次に「自分」の解体を始めよう。解体技術は(みんな気づいてないけど、ホントは)仏教に(も)ある。

そこで何が見えてくるか。

慈悲が善であり、怒りや執着や欲望なんかが悪だとかいうのは、そこで見えてきた事態にラベリングした先人の知見だ。後付けに過ぎない。ア・プリオリに「神の教勅」があったわけじゃない。逆だ。
だからいくら言葉で「正解」が羅列してあったとしても、自分で見てつかまなければ、本当の意味では解決にはならないし、せいぜい一時的な痛み止め以上の話になんかなりゃしない。

怒りや執着や欲望をいきなり世間一般や何かの権威のラベリングで否定するな。それは現状のあなた自身だ。無闇な自己否定に意味なんかない。そこじゃない。
そうやってしっかり立ち現れた自分、その自分というものをこそ問題にすべきだ。