प्रज्ञापारमिता
~仏教のおはなし~

モノローグの応酬

'20.09.12

対話はモノローグではありませんから、必ず「相手」があります。
釈尊は対機説法をされましたが、それももちろん、相手があるからです。

しかし、いくら片方が論理性・正当性を持っていたとしても、もう一方が論理破綻していたら対話にはなりません。歯車はひとつがどれだけ精巧であっても、もうひとつが壊れていたら役に立たないのと同様です。
壊れた歯車は修理するなり捨てて交換すれば済むのですが、人間はそういうわけにも行きません。とりわけ「壊れた歯車」がある場面において発言権を保持し、かつ自分の姿が見えていない場合には、無理に取り代えようとすると多方面に多大な悪影響を及ぼす場合があります。

恐らくこういう事は、人生の様々な場面において誰しもが経験する出来事ではあると思います。その時、ある人は諦めて壊れた歯車を騙し騙し使うのでしょうし、ある人はさっさと捨ててしまうでしょう。またある人は精巧な歯車のほうを捨てるかも知れませんし、どちらも放り投げてしまうことだってあるでしょう。
どの選択が正しいかは何とも言えませんが、いずれにしても「噛み合わない」状況の場合、「壊れた方」に期待をしても事態は改善しません。常に「精巧な方」が対策を立てねばならないわけですから、まったく世の中はうまくいかないものです。

釈尊の場合にしても、すべての人間が釈尊の言説をきちんと聞きとったわけではないでしょう。如何に「対機説法」とは言え、現実には耳を塞いでいる者には届きようがありません。

「耳あるものに甘露の門は開かれたり」
(マハーヴァッガ)

逆に言うと、耳がなければ甘露の門は閉じられているのです。

さて、無明妄念にまみれた我々凡夫にとって問題は、自分自身・あるいは他者が「精巧である・筋が通っている」か「壊れている・論理破綻している」かの判断が正確にできない、ということにあります(仏教云々の話ではなく、日常的な対話の場面において、ということです)。また、筋が通っていることと社会で通用するか否かはまったく別問題である、ということも言えます。
それに、いくら精巧であったとしてもそれは「比較論」であり、完璧な歯車というものは(仏陀を除けば)あり得ない事です。壊れ方の形態と程度は千差万別…これが事態をより複雑にします。

まぁしかし、いずれにしても他者の意図することをなるべく正確に聞きとる努力、そのためには他者の話を大声で遮らない事、筋道を追って思考すること等は、まずもって基本的なところです。出来る出来ないはともかく、少なくともここを意識する必要は絶対にあります。
歯車が決定的に壊れているというのは、このような対話の前提をまったく踏み外している場合を言います。ここがなければ、いかなる対話も原理的に成立しません。

世の中には、ここを踏み外したモノローグの応酬が如何に多いことか。
仮に一方が「正当」かつ「筋が通って」いたとしても、片方がそれを聞いていなければ、結局はそれもモノローグでしかありません。対話はひとりではできないのですから。

もしかしたら私が壊れているのかも知れませんが、それにしても、噛み合わない歯車をいくら回し続けても時間の無駄ではありますので、自身の歯車をもう一度見直してメンテナンスした上で、それでも噛み合わない歯車とは連動して動く事が出来ないわけですから、その場合には色々と考えねばならないことが出てくるのでしょう。

経典を拝読するにつけ、このような滅茶苦茶な無明世界において法灯を高く掲げてひとり雄々しく伝道を開始され、倦むことなく続けられた釈尊は、つくづく偉大であったなぁ…と思う今日この頃です。