प्रज्ञापारमिता
~仏教のおはなし~

努力の才能

'15.02.04

人には色々な才能があり得ますが、それをモノに出来るかどうかは、ひとえに「努力する才能があるかどうか」にかかっています。

色々な個性の才能は様々な車の種類みたいなもので、本当に多様。スピードのある車、馬力のある車、オフロードに強い車、強度は足りないけどめっちゃ早いF1カー、逆に装甲車みたいなの、カッコいいデザイン、丸いの、角いの、赤青白黒黄色に緑…トラックやバスや消防車…。
それが、色々な個性の才能。

でも、それがいくら立派でも、「努力する才能」つまりガソリンがないと、全部ガラクタになってしまうのです。

努力する才能というのは、ひとつのことを延々とできる才能でもあるのですが、あれもこれもと手を出しては、しばらくしたら飽きて次を探す。ある話に感銘を受けたら夢中になるけど、しばらくしたら他の「良い話」を探し始める。これではいけません。

地味なことを、目新しくもないことを、じっとやりつづけ、掘りつづける。回りから見たら「つまらんこと、いつまでやってるの?」と言われても、ここだと思ったところを、掘りつづける才能。信じられる才能。
これが、努力できる才能、ガソリンです。

仏教の修行や生活も、そういうことです。

仏教には「精進」という言葉があります。
「努力精進」とも言うけれど、これは決して「闇雲に頑張る」とは違います。
しっかりと智慧の眼で自心と周りを照らし、適切に努力をする。無理するのでもなく、サボるのでもなく、琴の弦が程よく張られているように、いつも適切な強さで努力していくこと。

人によって、なすべき事やしたい事、仕事や趣味、適正は色々と違います。だから、どんな分野でもいいのですが、これと決めた道を継続する。そうしないとガソリンが足りないのと同じで、いくら「立派な才能」という「自分だけの車」が隠されていても、地表に中途半端な掘りかけの浅い穴ぼこばかり開けるだけ。深いところにある地下の水脈には届きません。

もし「これかな」というものがあれば、十年一日を恐れず、コツコツとやってみましょう。どんな小さなことでも良いのです。
その先には、きっと水脈がありますから。
もし生きているうちに水脈に届かなくても、一心に掘り続けた「業」「功徳」というものは必ず身についていますし、後生に大きな力となり、仏さまはそれを必ず、受け止めて掬い取り、包み込んでくださいます。

努力をする、精進する。
一時間やれば一時間精進、一日やれば一日精進です。僅かなこと、僅かな時間でも、その功徳は絶大です。

これが、生きて行く上でどれほど大切なのか、改めて、考えてみましょう。
濡れ手に泡、というのは、虚しいことです。