प्रज्ञापारमिता
~仏教のおはなし~

智慧と知識

'21.03.02

仏教というのは、智慧の宗教です。

智慧と言うのはもちろん単なる知識ではない、言語分別を超えたところのものを言うのですが、だからと言って「果報は寝て待て」の如く、ある日突然に雷に打たれたように何か覚って聖者になる、ということはあり得ません。
まず、日々の生活をどういう心で過ごすべきかと言う指針を、仏教の教えに則って確立する必要があります。そのためには、仏教の思想というものを「知的に」ある程度は理解しておく必要があるのは当然で、そういう意味で智慧というものは知識に裏付けられる部分があります。もちろん無学文盲でも覚者になれますが、その「覚」が果たして自己満足や間違ったものではないかどうか、それを他者が判断するためには結局、知識が必要になります。それがないと誤った指導者に惑わされます。

では、知識をどうやって得るのか。

これは正師につくというのが正道なのですが、現実にそういう素晴らしい師というものはとても少ないです。また、それを見分けるためにも知識がいるので、結局は良き書物と自己の体験を頼りに、基本的な知識は得ておく必要があります。
が、その「良き書物」というのがまた、見分けるのが難しい。たとえば「般若心経」について知りたいと思って書店に行くと、様々な本がありますが、大抵は屑本です。まともな本はとても数少ない。他の分野も似たり寄ったり。
で、原典に直接当たるのがもっとも確実ですが、原典を読むためにはやはり基本的な知識が必要である…という、結局は堂々巡りとなります。

そういうわけで、まず定評のある「学者」の本を読むことが大切になります。学者の論文ではなくて、学者の書いた啓蒙書です。少し古い時代のものが適切です。確かに研究が進んできて、彼らの学説が覆された、というものもたくさんありますが、これは勉強を続けていけば「どこがどう」というのは段々とわかってきます。ので、最初はベテランの学者の定評ある仏教書を手に取りましょう。
具体的には、中村元・水野弘元・梶山雄一・渡辺照宏・玉城康四郎・平川彰・増谷文雄…等々。スタートはこういう古い学者さんの本がベストです。目新しさとか読みやすさに惑わされないでください。地道な研究をして来られた、実証的な方々の書物を読みましょう。応用は、その後です。目先の新しさや布教と距離を置いた方々の書物を読むことで、「見分ける」目は確実に、ついてきます。
私は増谷文雄の本から、仏教に入りました。そしてそれが正解だったと思っています。

こういう最初の段階での地道な知識の獲得を怠り、自分にとって気楽で気持ちのいい・都合のいいところばかりつまみ食い的に仏教をとらえてしまうと、後々、どこかおかしな考えになってしまうでしょう。また、先鋭的で個性の強い学者さんの本ばかり読んでいると、基礎がなければかならず間違えます。
チベット仏教や上座部仏教、あるいは真言宗や真宗や日蓮宗や禅宗、色々ありますが、どの仏教を中心にするにしても、宗派的な観点ではなくて、文献学的に手堅い本をしっかりと消化しておくことが、とても重要です。その意識がなければ、護教論やひとりよがりの伝統説を他の立場の者に押し付けることになります。
ですから立場に関わりなく、共通のこととして、上記で挙げたような学者の書籍は、常に意識しておいてください。少なくとも他人に対して仏教の何かを語って教えを広めよう、論戦しようなどと考える者は、その知識なくそれをやるのは犯罪的ですらあります。

文献学は基礎医学です。実地に仏教を実践するのは臨床医学です。基礎医学を知らぬ臨床家は危険です。こんなことは常識です。臨床を知らぬ基礎医学研究者よりも、実害は大きいのです。仏教も同じです。
文献学と現場の仏教は、両輪です。どちらも必要です。反目するものではなく、軽蔑するものでもない。
私たちは「研究」までしなくとも、真摯に研究されてきた文献学の蓄積をしっかりと受け止め、実践に活かしていかなくてはなりません。これは、僧侶としての義務であるとともに、それによって更に仏教が面白く、深くなります。まさに文献学の蓄積に触れて糧とすることは、そのまま自利利他に直結するのです。