प्रज्ञापारमिता
~仏教のおはなし~

慈悲のはたらき

'18.11.13

仏心は慈と悲となり 大慈は楽を与え 大悲は苦を抜く
抜苦は軽重を問うことなく 与楽は親疎を論ぜず

仏心とは慈悲である。大慈は差別なしに安楽を与え、大悲は親疎を問題にすることがない。

「性霊集六 天長皇帝雨乞」

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仏教で大切にしているものは「智慧」と「慈悲」です。

宇宙森羅万象、私たちの存在も含めて、もともとバラバラに分かれてはおらず、すべて関わり合い一体として縁起し、また自性がないこと・・・つまりそれぞれ孤立した存在ではないこと・・・そのような状態は本当は言葉に表すことができないのですが、そういうあり方をしている(これを空といいます)、それを覚るのが智慧(=般若)です。
私はあなた、あなたは私、私は仏様、仏様は私、私は宇宙森羅万象、森羅万象は私。私はすべて、すべてが私なのです。本来、区別はないのです。海と波の違いは、そう見ているだけであって、本当は同じものです。

ただ、私たちは生まれてこの方、私は私、あなたはあなた、と分断され切り離されたものとして世界を見てしまっています。コトバを使う、とはそういうことです。「赤」と言うだけで、私たちは世界を「赤」と「赤以外」に分けています。「波」と言えば波を見て海を見ず、「海」と言えば海を見て波を忘れるのが、私たちです。
コトバはもともと「ひとつ」のものを切り離す働きがありますから、智慧とは真逆です。この分断された世界を「世俗」と呼びます。

さて、仏教において、智慧とならんで大切にされている「慈悲」ですが、これには相手が必要です。つまりこの世俗世界、智慧の欠けた分断された私たちの認識世界において働くものです。
その慈悲は、「バラバラに分断された世俗世界」を、改めて平等で区別なき見方・智慧の見方に引き戻すための具体的な考え方と実践です。つまり智慧は、迷いにある私たちの認識世界では必ず慈悲という形で働いていくのです。

ですから、私たちはなかなか智慧の境涯・覚りの境涯には至れませんが、慈悲をしっかり理解して実践していくことで、この身に智慧を現していき、薫習させていくことができます。
その慈悲の行動の大原則が、「抜苦は軽重を問うことなく 与楽は親疎を論ぜず」です。分断ではなく、すべてを繋げ調和をもたらすあり方です。

慈悲を考えるときは、上から「与えてやる」のではく、右手が痛いときに左手でさするように、自然にこだわりなく行うのが慈悲であると考えましょう。これが一番、大切なことです。