प्रज्ञापारमिता
~仏教のおはなし~

普遍

'19.11.13

死んだらどうなるか。

無になる、天国や地獄に生まれる、大きな存在(神など)とひとつになる、何かに輪廻(転生)する、霊になってさまよう…色々な見解が人類の歴史を通じて表明されてきた。蓋然性の高低も立場や時代や地域によって違うし、結局は客観的な証明はできない。現代社会では、「無になる」というのが公式的には蓋然性が高いと見なされるであろうけど、一皮むけばインテリであっても案外、多様な感覚を持っているだろう。

まぁどのような見解であっても自由だ。自由だけれど、それぞれの見解において人は誠実であるべきであって、ある見解を持っている人が、他の見解を否定しながらそこに自分の見解を押しつけようとしてはならない。自分の領域に止まっているべきだ。

たとえば、「無になる」。

結構、それはひとつの見解だ。しかしそれをキリスト教や仏教の考え方に導入しようと努力すべきではない。断滅論そのものは可能性としては真かも知れないけれど、仏教ではそう考えていない。無理にそれを操作したり解釈したりして、無になるのだという見解を仏教に導入する必要はない。
また同時に、仏教の立場から創造神の存在を否定してキリスト教やイスラームに手を突っ込む必要も意義もない。逆もまた然り。

なぜ人は、他人に対してまでも世界観を一致させたり統一させようとするのだろうか。そこに何の意味があるのだろう。違うと言うことをそこまで恐れるのは何なのだろうか。一方が正しければ、他方は必ず誤りなのだろうか。
普遍というものも、常にある観点からの整合性を持った全体の説明原理であり、最初の仮定あるいは前提、見方の枠組みがわずかでもずれてしまえば、結果として導き出された普遍なるものもまったく様相を異にする。結局、普遍というものはある種の特殊に名付けられたらものに過ぎない。

そのような中で、しかし我々はそれでも、本当のところ、をやはり求めてしまう。特殊的普遍ではない普遍的普遍とは…と考えてしまうものだ。
そのための道筋も多様なものがあり、その真摯な模索の歴史もまた、我々の思想の重要な蓄積である。
そうして大乗仏教は、「見解を持たないこと」をその模索の第一歩とした。見解というものの性質を見極め、足下を掬われないように、自在に多様な見解を解体しながら、見解以前の、言葉以前のところに引き返し、前進せよ。時間のない時の経過を見つめ、空間なき場所で進退せよ。
しかしそれは仏教の立場だ。他の「見解を必須とする立場」を原理的に否定することはできないのだから、それはそれでこの世界に並列的に共存していくしかない。お互い、他者に「普遍」を強要はできないし、すべきではない。
そうしてさらにこれを突き詰めれば、仏教だとかキリスト教だとか科学主義だとかいうカテゴリーではなく、個別のひとりひとりのバリエーションだけ、相違がある。
それはそれでいい。美しい。
一色に塗り込められた世界、マスゲームのように揃えられたら世界よりは、多様な雑踏のほうが、全体として俯瞰したとき、却って普遍的普遍に近いものだと僕には思える。

そういう雑踏の交通整理は、雑踏の特定の一員の価値観を敷衍するのではなく、相互関係性に立脚した流動的な「社会契約」であって然るべきである。こんなことは(特にマイノリティには)当然なのだけれど、マジョリティ(と思い込んでいる)人々には、案外、見えていない部分でもあったりする。