ブッダ先生
'18.10.07汝は「仏はわが師である」と考えているけれども、仏は空であり、異教徒も空であるから、ともに一相であって、二つが別のものではない。故に異教徒もまた、汝の師である。もし異教徒が汝の師でないならば、すべては空であって二つのものの対立がないという道理に照らして、仏もまた、汝の師ではないということになる。
「維摩経義疏」
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空とはもちろん「虚無」ではなく、縁起性であり無自性のことであって、要はすべてのものは関係性の中で成り立つものであり、何ものかAは、それ以外のすべてのものがそこに関わって「それをそれたらしめている」ということである。
目の前の蝶がひらひら庭を舞うためには、全宇宙の存在が必要であり、そこに関わらない何ものもありえない、ということだ。もちろん、この目の前の蝶がいるからこそ、この宇宙はこの宇宙たり得ている。もしこの蝶がいなければ、その宇宙は、いまここにある宇宙とは何がしか違うものであるしかない。
それが空であり、存在は別個バラバラにあるのではなく、すべてがお互いに支え合い絡み合ったひとつの構造体である。
つまり、ブッダは我々の先生であるけれど、空である以上は全宇宙が先生でありブッダである。もしそれを認めるならば、異教徒であれ敵であれ、それはブッダをブッダたらしめる存在であり、ブッダそのものであらねばならない。彼を異教徒であり敵であり先生でないと言うならば、ブッダも異教徒であり敵であり先生ではない。
あなたが見るように宇宙全体が「そのようになる」。
もちろん先生にも多様な働きやケースバイケースの現れ方がある。しかしどれもブッダであり、先生であることに変わりはない。