प्रज्ञापारमिता
~仏教のおはなし~

心の海

'15.11.07

妄想が尽きて心が澄めば、あらゆる事象は平等に現れる。
あたかも、大海は風によって波立つけれども、風がやめば海水は清らかに澄み、いかなる事象でも映し出されないものはない、というようなものである。

澄観 『妄尽還源観』

……………………………

人の心は本来、静かな波のない、鏡のような清らかなもの。
しかし私たちは、色々なことに悩み苦しみ、右往左往して心を乱す。
本来は鏡のように静かで清らかな心であるのに、移り変わる実体のない、無常の出来事に心を執着させて妄想を抱き、本当は持たなくてもいい苦しみに身と心とを焦がしている。

心の海は静まり、波立っていない。ところが、迷いの心の風が吹くために、心に波風が立つ。
愚者は幻のごとき存在である男女の区別に眼がくらみ、仏教以外の異端の教えを奉じる者は、蜃気楼のごとき実体性のないこの世のものに、執われている。
浄土にしても、地獄にしても、みずからの心が創り出したものであるということを認識しないでいる。
これでは、いかにして心の迷いを取り除くことを知ることができるだろうか。
…【中略】… 
さとりの妨げとなる情的な煩悩と知的な煩悩とを断じ尽くせば、さとりと安らぎが自分の財となる。
—–空海 『秘蔵宝鑰』

本当は、心の海は静かなものである。
勝手な分別で苦しむのみで、本当は、「あれ」と「これ」はない。海と波は別のものでなく、波もよく観れば一如で区別あるものでない。
地獄と浄土は心が創り出す。
それは「地獄も浄土もない」ということではなくて、たとえばこの世界、私たちの生きている世界も、心のあり方で苦の世界になり、楽の世界になり、また汚れた世界になり、清らかな世界になるようなものである。
地獄も浄土も、おなじひとつの世界であるけれど、そこに居る者の心が波立っていれば苦の地獄となり、清らかな海の心であれば、浄土となる。
仏はいつもの「ここ」におられ、死んだのちもこの「魂」は清らかな浄土にいる。
自分の心が清らかであれば、いつも、ぃつまでも光に包まれた浄土の住人である。
情的な煩悩、「好き嫌い」「怒り・貪り」を離れて、知的な煩悩、「心が海であることを忘れて波に執着する無知の心」を離れれば、私たちは今も、死んだのちも、いつまでも安らかに清らかに、仏の光に包まれる。