प्रज्ञापारमिता
~仏教のおはなし~

猫と猿と馬

'13.01.08

「猫の宗教と猿の宗教と馬の宗教」というのがあります。

猫というのは、親猫が子猫の首根っこをくわえて安全な場所まで運んでいきます。子猫はぶらーんと咥えられるだけ。一方の猿は、母猿の背中にしがみついて、その体勢で母猿は子猿を安全な場所に連れて行く。馬は生まれてすぐに立ち上がり、母親のリードに従って自力で逃げる。

宗教がある種の「救い」というものを説くとして、仏教は猫と猿と馬、どのカテゴリーになるでしょうか。
一般的には「猫の宗教」と思われている場合が多いように感じます。
浄土教などは確かにそういう傾向があるでしょうし、いわゆる「癒しブーム」なる風潮で「そのままでいいんだよ」「絶対肯定」を仏教と同一線上に置いて考えている人の場合、たしかに「仏教は猫」と信じられているかも知れません。
一方で、たとえば禅宗系統などに親しい人であれば、仏教は馬だ、と言うかも知れません。その場合、猫が他力、馬が自力、ということになるのでしょう。

しかし私としては、仏教は猿の宗教だと思っています。

母猿にしがみつくという「努力・精進」は必要、その上で現実の自分の至らなさ・無明を見つめて母に任せきるという「信」も必要、そしていつか母のような存在になりたいと言う「菩提心」も必要。つまり、自力・他力・向上心が融合した、ある意味で段階的な「自他不二」の宗教こそが、仏教の本来的にあるべき姿ではないかと。
母猿にしがみつく努力をしたら、それが母猿を信頼していないことになる…なんて事はありませんし、しがみつく自力だけを恃んで母猿の大きさを信用していないとすれば、それは現実が見えていないと言わざるを得ない。
自力・他力のありさまを虚心坦懐に見詰めて、いつか自分自身が母猿として菩薩行を十全に行える仏陀となる…そこまでを総合的かつ段階的に構想するのが、仏教、少なくとも大乗仏教の立場ではないでしょうか(もちろん仏陀の立場から見れば完全なる自他不二の一法界で、本質的な段階の別は妄想だ…となるのですけれど、凡夫の立場では段階を踏んで向上して行く道が必要と思います)。

もっとも、実際の浄土教(とりわけ中国浄土教や融通念仏)や禅宗がすべて猫と馬の要素だけで成り立っているとは思いません。猿の要素も当然、あると思いますので、あくまでも上に言ったことは「一般的な人々が思うであろう仏教のステレオタイプ化」の其々、ということです。