प्रज्ञापारमिता
~仏教のおはなし~

自己即如来即浄土

'12.12.13

・質問

宗派によって読む経典や仏様が違いますが、よくわからない宗派の寺に行った時には、どうしたらいいですか? また、家族親族で違う宗派の場合、死んでから行くところは違いますか?

・答え

ネットでよくある「質問サイト」を見ていると、「真言宗の寺院で南無阿弥陀仏と唱えていいか」というのがありました。で、それにつけられていた回答に、「南無阿弥陀仏は真宗か浄土宗で、真言宗ではダメだ。なお、般若心経などは阿弥陀さんは嫌うので、唱えてはいけない」と。

回答者がどういう人物か知りませんが…なんだかなぁ。

まず第一、宗派というものは人間の側の都合というか、凡夫の勝手な拝み方や分別臭い教理的の主張の分裂で起こったわけであって、そもそも仏菩薩の側の知った事ではないんじゃないかと。
まず、真言宗寺院で南無阿弥陀仏についてですが、それは本人が阿弥陀如来を信仰しているのであれば、真言宗寺院で色々な仏様に出会えた感謝を阿弥陀如来にしても良いわけで、何もおかしいことではないでしょう。
そもそも多様な尊格がなぜあるのかというと、それは本来、姿形の規定できない、無分別・主客不二の真如・法身仏の世俗諦の縁による多様な顕現の姿ですから、どの尊格も同じです。波に違いはあれど、海はひとつ。その海さえ踏まえていれば、畢竟、同じことです。
同様に、般若心経云々ですが、こんなものは論外の回答で、少なくとも大乗仏教であれば空が前提です。浄土教であれ密教であれ、これは外せません。そしてそれを端的に示した般若心経を唱えて「怒る」尊格などあろうはずがないです。
良い悪い、ああだこあうだ言うのは単なる人間の分別です。虚心坦懐に考えれば、少なくとも大乗仏教の立場に立つ以上、般若心経を排除する理由はあり得ません。

死んでから行くところも、結局は同じところです。
西だの東だの言うのは方便であり、教理的な象徴体系による表現です。娑婆即寂光土。この世界と浄土とは、不一不二です。凡夫から見れば不一であっても、如来から見れば大宇宙すべて仏国土です。その大宇宙には、物心すべて融合しています。本来、行くも行かないもありません。海にある無数の波がそのまま如来の大海です。個別の波ばかり取り上げて云々せずに、波が繋がっているその下を見て、そうして、波が海になるのではない、海がそのまま波なのだと。そういうことです。
つまり浄土は、往く者が海を知らぬならば別々に思えますが、海を知れば無碍融通のただひとつの海・ただひとつの大浄土です。覚するまでは別々に見えるかも知れませんが、いずれにしてもいつかは倶会一処、ということでしょう。安心してください。

結局、あくまでも宗派は「未だ海であると自覚できない凡夫が、どの波から海を見るのか」という事でしかない訳です。そういう意味において「この経典・この教学を重視する」ということは、あって然るべきでしょう。しかしそれは、海に達するための「入口」です。如来は海の立場から、波を見ています。
海に対して、「あなたも波であれ」と言う事が、果たして適切でしょうか。そもそも、波を個別に見ていることをこそやめて、波即海であることを自覚すべく向上していくのが、私たちの正しい方向ではないのでしょうか。

そんな窮屈なセクト仏教は、もうそろそろやめにしませんか?