प्रज्ञापारमिता
~仏教のおはなし~

大乗否定の大乗僧

'11.09.01

私は別に南方仏教が嫌いなわけではないしパーリ訳仏教の伝統は尊重・尊敬していますが、日本人のパーリ訳仏教シンパは、どうして一々「大乗否定」をしなくては気が済まないのでしょうか。私がかれらを批判するのは、南方仏教そのものではなく、そういう非建設的で非論理的、かつ非学問的な妄想に関してです。
そもそもパーリ訳聖典が「原始仏教」というのが間違いですが…まぁ、そんなことは言い尽くされているので今更いいでしょう。

問題は、そういう「大乗は非仏説だ」「大乗は釈尊とは関係ない教えだ」と主張する者の中に、驚くべき事に伝統仏教宗派の僧侶が少なくないことです。
どういう思想を持とうが自由ですが、少なくとも自分が否定している教えの流れに属して、そこで生活しているのは不誠実ではないでしょうか? それこそ法を手段に使って糧として食べる「窃盗罪」ではないでしょうか。その宗派の儀礼で葬儀する・法話をしているとすれば、それは「妄語罪」ではないでしょうか。
宗派の公式教義などに盲従する必要は更々ないですし、「大乗仏教」の枠内で儀礼・教理についての色々な意見があるのは当然ですが、その基本的理念や根本的世界観に反対であるのなら、潔く僧籍は返上すべきだと思います。そしてその派の儀礼や経典は捨てるべきでしょう。
少なくとも、大乗仏教そのものを否定しつつ、その立場でものを述べると言うのは、非常に迷惑な事です。一般人から見れば、彼らは大乗僧なわけですから。
ネットを少し検索するだけでも、天台宗・真宗・曹洞宗・臨済宗(真言宗にもいるかも知れません)などの僧侶が、堂々と「大乗非仏説」を唱えつつ、その大乗の儀礼に則って生活をしている現実は、南方仏教の是非以前の問題だと思うのですが。

もちろん様々な考え方、あるいは他派の思想などを取り入れ、咀嚼しつつ独自の見解に至ることはありますし、それは仏教としてはある意味で「正しい姿」であると思います。私も自行においては真言宗の公式教義や実践方法からは少し外れていますが、その基本的世界観や思想は認めて受容しており、伝統的真言宗の方向性も理念的には正しいと思っています。ただ、いくつかの点で意見を異にする部分があり、独自の実践をしているということです。
しかし、自分の見解に固執して他の見解を否定・排除して独善主義に陥るのであれば、それは間違っています。私も自分の方法論がすべて正しいとは思っておらず、他の方法によっても仏道を全うすることは出来るし、それこそ対機だと思っています。
だから、伝統宗派に属しつつ南方仏教(あるいはチベット仏教)の考え方を取り入れること自体は別に良いのです。これこそ釈尊の原点回帰だと信じるならば、それはそれで良いのです。
問題は、その「自分の思想」があたかも「唯一絶対の真理だ」であるかのような表現で「自分が属している流れを否定しつつ、しかしその看板でメシを食う」ことの賤しさです。これはアウトでしょう。これは色々と咀嚼して独自の見解に達したとか、そういうのとは問題の次元が違います。
そういう結論に至ったのなら、やはり宗派なんか離脱して、自分の信じる思想に則って誠実に歩むべきです。

仏教的に明確に誤った思想というものはあるでしょう。しかし大乗(や密教)がそれであると私は考えていませんし、全仏教徒のコンセンサスもないと思います。ある特定の立場から否定するということを、あたかも「本来の仏教では」とすり替えて述べる事は、一般の人を惑わせる行為です。
もし「本来の仏教」ということでいえば、私は南方仏教がそこから遊離したことを回復するための運動が大乗仏教運動だという立場ですから、まさに「大乗こそ本来の仏教」と考えています。しかしこの論争は水掛け論ですから、非建設的です。

教理上の是非については私は判断しませんし、今ここで何をか述べようとも思いません。
私が言いたいのは、単純な事です。
自分が否定する教えに乗っかってメシを食う事の是非。
その看板で人前に僧侶として出て、そしてその看板批判を展開し、その看板の経を読んで布施を頂く…それは仏教云々以前に、人として非常に問題があるのではないか、ということです。
もとより色々な思想があるのは大歓迎、お互いに尊敬・尊重し合い、刺激を与えあえる関係が理想です。
そろそろ他の思想(…というか、自分自身が属する看板)に対する無意味かつ非建設的・非学問的な独善的批判はやめて、ちゃんと自分の信じる道に誠実にいきましょうよ…そしてそれぞれの立場で対話し、お互いに高め合い深めあえる、そういう成熟した関係を構築する、そういう時代になって欲しいものです。