प्रज्ञापारमिता
~仏教のおはなし~

葬儀は誰のため?

'10.08.11

葬儀は生きている遺族の心のケアの為にするのだ…とか、「死」を残ったものが受容するための伝統的社会システムだ…とか、そういう言説がよくあります。
まぁ確かに、民俗学的に葬送儀礼を考察すれば、そうなるのでしょう。また、葬儀にそういう意味も含まれている事は否定できませんし、しません。

しかし、本当にそれが主要な意味なのでしょうか。
僧侶がそんな気持ちで導師をすることが許されるのでしょうか。

もしそうなのだとすれば、私は葬儀の導師など出来ません。そもそも引導だの潅頂秘印明など、もし死者の為でないとすれば、いったい何のためですか?

パフォーマンス?

もし「葬儀は単に遺族慰撫の文化システムであり、死者の為などではない」と思ってやるのなら、それは確かにパフォーマンスでしかないし、そう思ってそんな「手遊び」をしているとすれば、それは無意味・ナンセンスだし、更に言うと、詐欺行為です。
確かに印など後ろから見えやしないし、テキトーに誤魔化しても、「遺族の慰撫」にはあまり影響ないでしょう。演技力の勝負です。口八丁…の世界。

なんたる無意味。

それで良いというのなら、仏教の葬儀など消えてしまうべきです。
あまりにも人間をバカにした行為です。
そんな数時間の無意味で空疎なパフォーマンスに何十万・何百万もかけるくらいなら、そのお金で故人が生前に好きだった場所・思い出の場所を旅して静かに思いを巡らせる方が、何倍も自分自身の心の癒しになります。
否応なく、押しつけがましく、「これは遺族の癒しの為ですよ」など、笑止千万。

葬儀の意義。

それは、故人の生前あるいはそれ以前からの業を、導師自身に伏在している(如来蔵の)加持力また法界力によって、故人(の業)を真如法身との和合に誘い、故人の自性清浄心の本面目を発現せしめること、導師/故人不二の全一的真如に向かうために故人の業を縁づけていくこと…それが葬儀の意義だと、私は思っています。
その内実があるからこそ、それを信じるからこそ、私は葬儀の導師をするわけです。

無論その実践を通して、私の信じるいのちの真実、自性清浄心、真如、如来蔵…それらを知ってもらう機会になればいいとは思いますが、それは葬儀という場面に於いては中心的なことではありません。
同様に、遺族のケアもあくまでも副次的なものであって、葬儀はどう考えても「死者のため」にしかあり得ないと思います。もしそうでないなら葬儀など無用です。
引導する対象・受戒させる対象など何も存在せず、ただ遺族だけが空っぽの空間にいる。僧侶は故人がいる(あるいは魂がある・流転する業というものがある)フリをして演技をし、それによって遺族は癒されるだろう…だなんて、本当にそう信じているのなら…導師としてそんな「ありがたそうにパフォーマンスするだけの詐欺行為」をすることは、私には耐えられない事です。