प्रज्ञापारमिता
~仏教のおはなし~

水のこころ

'10.06.20

日蓮聖人の御遺文である『上野殿御返事』に、

今の時、法華経を信ずる人あり。或は火のごとく信ずる人もあり。或は水のごとく信ずる人もあり。聴聞する時はもへたつばかりをもへども、とをざかりぬればすつる心あり。水のごとくと申すはいつもたいせず信ずるなり。

という言葉があります。
もちろん日蓮聖人の言わんとするところは「法華経の信心」のことですので、私が今から言う事と違うと言えば違うのですが、一般論としての「信じる」ということに関して、この言葉は非常に大切なことを述べていると思います。

私はご存知の通り(?)、福音派の元クリスチャンです。
クリスチャンとしては20代の前半数年間の信仰生活でしたけれど、今にして思い起こせばまさに「火の如き信仰」で、短期間に燃え上がり・一気に燃え尽きました(笑
それこそ毎日毎日聖書を読み祈り、日曜礼拝はもちろん水曜聖研にも出席し…恐らく当時の私は精神的危機にありましたので、無意識のうちにその穴埋めをイエス・キリスト、或は教会自体に求めていたのかも知れません。
私の体験を一般化して語る事は危険ですが、「火のような信仰」は往々にして、「人間的な弱さを外部的な何物かで埋め合わせようとする行為」と同一の心根ではないかと、そう思います。その弱さの闇が深く濃いほどに、益々「埋め合わせの火」は燃え盛る…。キリスト教という宗教自体にその傾向が無きにしも非ず・と思うのですが、やはりそれは非常に人間のある種の琴線に触れる部分なのかも知れません。だから私は火のような信仰を否定はしませんし、火を燃やし続けることで、まったく異次元の境地に達する方々もいる筈だとは思います(諸聖人の燃えるような純粋の信仰!)。

しかし今、私は仏教に対して、燃え盛る熱情によって信仰する…という気持ちにはなっていません(し、その必要も感じません)。クリスチャンだった昔よりももっと、目線が下向きです。
それは天に向かって上昇していく絢爛たる救いの喜び…ではなく、深い海に潜り、徐々に深い青に包まれていく静寂との全的一致のようで…その方向にこそ、私は寄る辺を求めたいと、心からそう思います。その深い海につながる、細い細い川の途上に私はいますけれど、いずれ海に達し・潜っていくことで、海も川も「私」も、本来一致した不可分の全体であったのだと、それを覚せる確信だけを、静かに・静かに持って、この世界を渡って行きたいと思います。

思えば、キリスト教で粉飾される以前の素のイエス・キリストも、実は静かな水の人であったのではないかと、そう私は感じることがあります。