प्रज्ञापारमिता
~仏教のおはなし~

自分探し

'09.10.31

「自分探し」という言葉があります。私の嫌いな言葉のひとつです。
こういう言葉は以前からありましたけれど、現在ではもはや「普通の言葉」として定着してしまったようですね。最近では中田英寿がこの言葉を使って世界を放浪していたような気がしますけれど…彼はいったいどういう「自分」を発見したのでしょうか?

そもそも、「今の自分は間違っている」ので「どこかで何かをやって、本当の自分を探すのだ」というのは、いったいどの程度の妥当性を持った考え方なんでしょう。
「今の自分は違う」「本当の自分を探す」と言う以上、何が「本当」で何が「偽」であるのか大体の目星がついている筈なのですが、私には「自分探し」をする人がそれを「知っている」とは思えないのです。よくわからない「何か」を闇雲に探したところで、それが果たして見つかるものなんでしょうか。

第一、「自分」を探しているのは誰なんでしょうか。それは「本当の自分」とは違うものなのでしょうか。もし「偽の自分」が「本当の自分」を探しているのだとすると、そんな「偽物」が見つけてきた「本物」など、いったい信用に値するのでしょうか。
本物と偽物の境界はどこにあるのでしょうか。
世界を放浪すれば、どこかに「本当の自分」が落ちているのでしょうか。外部の「刺激」がなくては、「本当の自分」は見つからないのでしょうか。

第一、「見つけられた自分」など、そんなものは本当に「自分」ですか?
その「本物」を見ているのは、では誰ですか。「本物だ」と認識しているのは誰ですか。

自分など、外部に求めても、そんなものはどこにもありません。
「探し求めて見つけた」ものは、それがどんなに素晴らしいものであっても、決して決して「本物の自分」ではあり得ないし、すべて移ろいゆく無常のもの、死ぬときにはすべて置いて行かなくてはならない幻花です。

私たちは客観視できない、主客以前の「本当の自分」に自覚的に「ならなくては」、決して絶対の平安に至ることはできませんし、この世界の真実・実相に触れることはできません。ただ闇雲に生まれ、闇雲に死んで行く輪廻の世界を延々と繰り返す、無目的な生死を生き死に続けるだけです。

「本当の自分探し」とは、それを外部に求めることではなく、自分自身の心とはいったい何であるか「如実に自心を知る」こと、「主客不二の絶対一」とは何であるかを「覚」することです。
「本当の自分を探したい」と真実に思うのであれば、それは自他対置の中にはなく、世界のどこかにあるのでもなく、未来のいつか出会うものでもありません。未来も過去もないただ今、すべての場所のここ…それで「ある」という事実の自覚こそが、「本当の自分」です。それはモノでも存在でもない、徹頭徹尾、「全的自覚」なのです。

ここを腹に据えて生きることが、仏道です。