प्रज्ञापारमिता
~仏教のおはなし~

あなたは誰?

'09.09.05

人は「肩書き」というレッテルを自他ともにベタベタ貼り付けて安心している。
そうして何がしかをわかったつもりになっている。

そもそも「分かる」ということは「分ける」ことだから、それはその本質として致し方ないのかも知れないが、「分けた」からと言って、それがいったい何を分かったことになろう。
「分かる」ということがレッテル貼り・分割認識に過ぎないのなら、我々にとってもっとも大切なこと…つまり「覚り」とは一切合財、徹頭徹尾、どうしたって無縁のものでしかない。

「大企業の社員」という自己規定で何とはなしに人生を納得していても、退職すればスッカラカンの空きビン同然である。「一部上場」「部長」「社長」、それが何か。そんな空きビンの代わりはいくらでもいるし、代わりの人間だって空きビンの中に役にも立たない「プライド」を充填して「一端の大人物」だと思っているだけだ。どうせ満々に充填したプライドなんざ安物の炭酸飲料よりも役に立たない見せかけの「泡」。
「金持ち」は、カネがなければ成り立たない。カネに寄り掛かってカネの威光でやっとこ立っている案山子ではないか。死んだらそれを巡って争いが起こるが、争う人間は「死んだ金持ち」のことなんざ気にもしない。気になるのは「カネ」だけである。そしてカネなど、国家が傾むいた程度の事でみるみる目減りする虚構の紙切れに過ぎない。案山子ですら自分の足で立っているのに、金持ち案山子はカネと国家に支えてもらってやっとこ立て掛けられている。
「家柄」が何になるか。家柄など気にするのは「自分は家格が高い」と思い込んでいる者だけだ。あるいは、「自分は家格が低い」と卑下している愚か者か。そんなもの自己満足か自虐精神の幻想以外の何であるか。
「学歴」も同様、高学歴であるから何だと言うのか。それにしがみついて始終ブンブン振りかざすのは勝手だが、団扇ほどの風も起こせまい。
「肩書き」はこういった「分かり易い」ものだけではなく、「僧侶と在家」「親子」「男女」「国家」…いや、「オレとオマエ」「あれとこれ」と分けることがそもそも「肩書き(レッテル)」貼りである。

所詮、「肩書き」など、自分と他人を勝手気ままに分けているだけのこと。
そうして如何に自分が他人より優れているか(あるいは劣っていないか)威勢を張って、人生を賭けた虚仮脅しに右往左往している「自我・虚我」に貼り付けた晒し首の「表札」でしかない。良く言っても、「自分の存在を確認するための便宜的な区分」だ。
いよいよ死ぬ段になって、そんな表札だの便宜的な区分が何になるか。
否、のうのうと生きている刹那であっても、そんな表札に第一義的な価値はない(ややトーンを落とすようだが、円滑に社会を切りまわしていくという意味での便宜的な価値はある…いわゆる世俗諦というものだ)。

「あなたはどこから来て、どこへ行くのか」

「あなたは誰なのか」

自他未分の真源・本源…「本来の面目」とは何か。
己の眼は己の眼そのものを見ることは絶対にできない。鏡に映じた眼は虚像である。それは眼自体では決してない。鏡が曇っていれば、色つき鏡であれば、歪んでいれば…然り、「私」を「私」だと思う「あなた」は、いったい何を「見て」、あれを「私」だと言うのか。あなたが「見ている」ものは、「見られている」というその一点において、絶対に「私」などではあり得ないのに。
そうして、この「私」の本源を覚さなければ、どうしたってこのいのちは絶対的に安定しない。鏡に映った「私」をうまく操作したとして、それはこの短い刹那の人生を、虚構の我がバランスよく歩いた(ように感じた)という「だけ」のことである。

あなたは誰か。
誰だと問うている、この「私」なるもの、これはいったい何者なのか。