प्रज्ञापारमिता
~仏教のおはなし~

秘仏とは

'09.08.25

・質問

「秘仏」とは何ですか?

・答え

日本各地に「秘仏」とされる仏像は数多くありますけれど、私が住職を拝命している福楽寺の場合も、御本尊の薬師如来は秘仏です。福楽寺の場合、2月8日のみ御開帳をしています。

「秘仏」の一般的な説明をwikiにて。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A7%98%E4%BB%8F

まぁ、一般的な意味合いは上記wikiにある通りだと思います。
個人的には、やはり日本の宗教伝統による部分が大きいのだとは思いますけれど、この「秘仏」という習慣は仏教的にも意義を認めることは可能かと思います。

私の仏教思想・実践の基礎には「如来蔵思想」というものがあるのですが、今回はこの観点から「秘仏」の意義を考えてみます。

如来蔵思想を簡単に述べると、「誰でもが本質的には如来である」ということです。それを自覚できれば「覚り」「仏陀」ですし、できていなければ「迷い・凡夫」なのですが、しかし「事実として我々すべて本来は仏陀である」ということがつまり、「如来蔵」ということです(もっとも、「自覚する」「わかる」ということ=「知的に分かる(分別知・分析知・主客相対の知)」ことでは当然なく、それは無分別智・主客不二の般若智のことであることは当然です)。
これは修行無用論に陥る危険性があると指摘されますが(中古天台本覚論などはこの傾向があるようです)、本当は逆でして、修行なくして如来蔵を覚することは不可能であり、修行なくしては「事実としての仏陀」は「現実には凡夫のまま」でしかなく、彼は苦にひきずられ、無明妄念に惑わされ、輪廻の苦海を延々と経巡るしかないわけです。
つまり、極めて修行重視(と言っても難行苦行や僧侶だけの特別な修行ではなく、六波羅蜜行・とりわけ止観を重視します)の思想なのです。

この立場で「秘仏」を見てみると、まさにこれは「如来蔵」の可視的な表現であると受け取ることができます。つまり「隠された仏像」とは、現実の凡夫である我々に潜在している本質を示している…。
日常、私たちは妄想・妄念・無明・煩悩に踊らされ惑わされて苦海を泳いでいるわけですが(そんなに苦しくないよ…という人もいるかも知れないですけれど…本当にそうでしょうか?)、それでも私たちの本質・本性は、たとえ隠されていたとしても、仏陀そのものです。これを、秘仏は示していないでしょうか。
そして時々扉が開くわけですが、これは「如来蔵の開顕」を示すもので、実は仏性は眠ったままではなく、常に目覚めようという方向で働いていることを示しています(これを「真如薫習」とも言います)。

このように、我々の凡夫性と如来蔵とを「秘仏」は表現している…と受け止めることができますし、私としてはそのように受け止めています。もちろん他の受け止め方もあるでしょうけれど、いずれにしても仏教徒としては、なるべく「仏教的な意義を含めた受け止め」ということが必要になるのかな、と思っています。
これを「会通」とも言いますが、古来より仏教というものはこの作業を大切にして来ました。仏教の本質を変えることなく、周りの諸事象を仏教的に再解釈・再構築していくこと。これが仏教の多様性と本質的同一性の根拠です。

「秘仏」。
「たまの御開帳だから貴重ですね」「寺がありがたく見せようとしているだけ」等々の色々な言われ方をされますけれど、今一度、その意義を考えてみてはいかがでょうか。