प्रज्ञापारमिता
~仏教のおはなし~

大乗非仏説

'09.06.15

・質問

大乗仏教は歴史上の釈尊の説ではないから、偽仏教ではないのですか?

・答え

私は色々な場所で縷々書いているのですが、大乗非仏説論を主張する学者は前世紀まででしょう。今時そういう事をいう学者はほとんどおりません(もちろん仏教学を護教神学にしている「学者」はその限りではありませんが)。

そもそも非「仏説」と言うからには、「仏とは何か」という議論が必要です。
南方仏教の「神学」では仏陀を歴史上の釈尊に限定しますので、その観点では大乗は非仏説でしょう。しかし釈尊以外にも仏陀はあり得るという大乗の立場では、仏は釈尊以前にも以後にもあり得ますので、法を覚した者の教説はすべて仏説と言えます。無論、釈尊は歴史的にも現在の大乗仏教の根源となる覚者ですから、もっとも重要な仏陀であることは当然です。

現在の仏教学で大乗非仏説論を云々しないのは、以上のような問題は信条の問題であり、客観的な学問の俎上に載せて論ずるに相応しいものと見做されていないからです。
学問的な意味での白黒決着は出来ないし、無意味だということです。

私の個人的な信条で言うと、そもそも仏教は万人に仏陀になる可能性がある(というより、そもそも本質的に我々は仏陀と不二である)、ということが釈尊以来の仏教の原則だと思っています。もちろん機根や業、縁の問題もありますから「万人が今世で仏陀の自覚を得る」とは言えないのですが、「誰も仏陀になれない」という立場は、少なくとも私は取りません。その意味で、仏陀を釈尊に限定する立場は、釈尊を神格化して悪しく敬っている、ということになるでしょうね。
歴史上の過去にも仏陀はいたし、今もいるだろうし、将来もいるでしょう。そして現に我々衆生・全現象が仏陀と不二であるならば、何がいったい仏陀ではないと言えるのでしようか。
ともあれ、彼らが法を覚し・自身こそ仏陀であることを覚して記した(説いた)経典は、私は仏説だと思っています(もちろん釈尊以来の仏教の大筋をしっかりと把握して、それと著しく逸脱したものは「偽」あるいは「非仏説」と判断しますが、未だ覚らぬ凡夫たる我々はその基準について現代仏教学を「も」大いに利用する必要があります)。

因みに、南方仏教・いわゆるテーラワーダ仏教の依拠する「パーリ仏典」は確かに古層を保存した三蔵とされていますが、これは釈尊が使用した言語ではありません。時々誤解があるようですが、釈尊の使用した言語は中部インドの「中期マガダ語」であったと推定され、西インド系統のパーリ語ではありません。
同時に、パーリ聖典の文字化・整備は紀元前後と言われていますので、サンスクリット系経典と時期的にはそう大差がありません。ものによっては漢訳よりも新しいものがあるようです。
さらに、パーリ聖典は部派仏教時代の「分別説部」系統の伝承による三蔵であり、他の部派(説一切有部や経量部、化地部、雪山部、大衆部…)には他の伝承が存在していたわけで、パーリだけを「釈尊金口である」と絶対視するのは「神学」に過ぎません。
たまたま部派仏教のうち、インド中心部を離れた南方に伝わっていた分別説部・パーリ仏教の伝統だけが現在まで残った、ということです。