प्रज्ञापारमिता
~仏教のおはなし~

無執着

'19.12.08

種より樹 及び華果を生ず
種なくば 華果 悉く皆なし
発心して 仏菩提の為めにせずんば
修行は 終に菩提の果に遠ざからん

亦 船師の善く済度するに
両岸に著せず 中流に非ざるが如し
善薩 無所著を修行せば
乃ち 仏菩提の記を受くることを得ん

(意訳)

種から木や花や果実が生まれる。
種がなかったら、花も果実もない。
同じく、いくら仏教の修行や勉強を志しても、
自らが仏になり覚るのだ、とならなければ、
どこまで行っても何にもならない。

仏になるための修行とは何か。

たとえば船頭がいる。
船頭は人を岸から岸に渡すのが仕事である。
しかし船頭はこちらの岸に執着してこだわらない。
あちらの岸だけを大切にして執着しているわけではない。
だからといって、川の半ばにずっといるのでもない。

そのように、執着しない心、自由で縛られない心、
その心が種。仏になり、覚る種になる。

仏教の知識を蓄えたり難行苦行をすることが偉いのではなく、
頼りにならない、儚いものにしがみつかずに、
みずから仏となり、今世でも来世でも苦しみに沈む人を救いたい、
その動機によって仏教を修行し学ぶならば、
そんな人は必ず「あなたもいつか仏となる」と、
あらゆる如来、仏はしっかりと保証している。

『仏母宝徳蔵般若波羅蜜経』昂誐天姉品第十九

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意訳で書いたことを読んでいただけたら十分なんですが、テーマは「無執着」です。
何事にも原因・縁があって、そして結果があります。原因が種、縁は太陽や水や土や労働その他、あらゆる条件のこと。それによって実りがあります。いくら縁を頑張ってたくさん良く整えても、種がなかったらどうしようもありません。

仏教の修行も同じです。
また、先祖供養も同じです。

形だけ整えて立派にやっても、そもそもの気持ちがなかったら無意味です。お坊さんも、形だけ立派にやることは誰にでもできます。
しかし、意味を理解してしっかりと気持ちを向けていないならば、それにどんな意味があるでしょうか? 種のない土を耕して肥らせても、雑草の棲家になるだけです。

必ず、種が大事です。

仏教の修行や供養における種とは、移り変わる世の中のもの、死んだら終わりのもの、お金や地位や家柄や人生経験や自分の命、それに執着せずに、死ぬまで、また次の世でも、誰であれ苦しむ人の苦を軽くしたい、楽を与えたい、思いやりを持ちたい、その心、慈悲の心だけがみずから死んでも持っていける宝であると信じ、それを完成した方、つまり仏に自分もなりたい、亡くなった人にもそうなって欲しい、その気持ちだけが、真実に価値のある種です。
執着は悪い種で、それを植えたら植えただけ、いくら丹精を込めて世話をしても立派な実りにはなりません。

立派な実りには立派な種。

そうして種を植えたなら、その次に様々な縁が必要です。仏教の勉強や修行、生活のために必要なモノ、人間関係…良い縁をたくさん積みあげましょう。様々な功徳を積みましょう。
移り変わるものに執着せず、思いやりと慈悲喜捨だけを大切にし、そのために役立つ縁はしっかりと役に立てる。自分だけのためではなく、自分も含めたすべてのために。