प्रज्ञापारमिता
~仏教のおはなし~

情報とは

'19.06.06

一切世間は但し是くの如くの字相のみを知って 未だ曾つて字義を解せず この故に生死の人と為す

人々は言語による説明だけで仏を理解していて、仏界の真相を知らない。だから生と死に一喜一憂している。

「吽字義」

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言葉の上だけで表面的な理解をしている…ならばまだマシで、いわゆる間違った知識や一知半解での「知ったかぶり」を目にする機会が非常に多いのが世の常です。
テレビなどを見ていると、健康番組や文化、宗教、歴史、科学…様々な情報が溢れています。インターネットや書物の世界でも同じです。

たとえば健康番組。
あの類の番組にはお医者さんが出演していたりしますが、他の医者がそれを見てあまりの酷さに憤慨することも多々あるそうです。

仏教の番組もあります。
控え目に言っても、テレビやインターネットに流れている仏教の情報の大半はいい加減だったり間違ったものが多くあります。僧侶が出演していても同じで、けっこう適当で偏った話をよく見ます。

歴史や科学番組も似たりよったりで、専門家が見たらあまりの酷さにびっくりするものがかなりあるようです。
しかし私達には、それがわかりません。
私も仏教や宗教についてならばある程度は判断できますが、科学や医学番組の情報が正しいか間違っているかはなかなかわからないものです。わからないのですが、仏教番組はかなりひどいですし、他の番組もそれぞれの専門家の方たちが憤慨されていますから、推して知るべし、なのだと思われます。

どうしてそうなるのか。

まさしく「知ったかぶり」、あるいは僅かな知識を組み合わせて「もっともらしく」勝手に整理してわかったつもりになる、思い込みや世間の噂程度の話を事実であるかのように考えてしまう、狭い自分の経験だけでものを見る、自分で確かめずに他人の言うことを受け売りする…そんなところでしょう。
これでは、弘法大師のいう「言語による説明だけで理解する」以前の話です。表面的な理解にすら届いていません。

安易に思い込まない、勝手に「こうだ」と判断しない、肩書や雰囲気に騙されない、常識も間違っていることはある。
だから、何事も軽々しく断定したり決めつけたりせず、まずは自分で冷静に調べてみたりする。色々な観点から考えてみる。そうしてきちんとした情報を得るように努力して、その上で「表面的ではない本当の意味」…つまり、それらの情報がコトバ上の単なる情報ではなく、「生きて死ぬ、まさにこの自分自身にとって」コトバにならない体感の次元どのような意味を持っているのか、をしっかりつかめるまで考えてはじめて、真実にものを知った、と言えます。

なかなかそこまで「深く知る」のは難しいですが、少なくとも言葉には限界がある、世の中には間違った情報が溢れているから安易に信じない、ということは大切です。
他愛もない話ならどうでも良いでしょうが、医学や仏教は心身の健康にも関わりますから、気をつけたいものです。