प्रज्ञापारमिता
~仏教のおはなし~

3つの論理

'18.06.18

宗教上の「理屈」には3段階あって、これを意識できていない人とはあまりうまく意志の疎通ができない。

まず、よく言われる「内部論理」というものがあり、これは宗教宗派の教学や信仰のことである。それらは内部においては整合性がある一貫した体系に大抵の場合はなっている。世界観、と言っても良い。
それから、「一般的な論理」の場がある。これはそれぞれ内部では完結した一貫性のある論理であったとしても、前提が相違していたりする場合は他者には通じない。そこを理解して、対話の場を設定するにあたってより一般的な基準、文献学や論理(学)、相対的な見方を働かせる必要がある。
三番目は、「個人の論理」であって、たとえば「内部論理」だからといってそれに100%同じ、というわけにはいかないのが通常だ。なぜなら内部論理といえども、それはあくまで自分自身にとっては「他者性」を必ず帯びているのであるから、常に自分自身が経験している事態からはずれている局面から生み出された理論である。内部であっても、自己一身から見れば「外部」でもある。
相対的に近いか遠いか、というのはあるけれど、外部性・他者性を帯びていれば、それは個々人の論理とまったく同じということにはならない。

つまり、明らかにその3つの論理でもって他者の考え方を「啓蒙・矯正」等できない道理なのに、この世界ではそれをやろうとして論争が絶えない。まったく無意味なことだ。

しかし同時に、我々はそのような他者の論理(その始めは母語の習得だ)を学びながら、徐々に個人の論理を形成していく。だから幅広くそれらを学び知る必要はあるだろう。しかしそれは素材として知るのであって、出来合いの料理として受け入れてはならないし、自分にとっての料理も他人には素材なのだ、とは知っておく必要がある。それを料理だと言って他人の口に押し込むなど論外だ。

それぞれの論理を広く提示することは良い。それは重要なことだ。
しかし、すべきなのはそこまでだ。

なお、仏教においては上記の論理はすべて妄想であって、迷いの根源となる、と考える。あくまでこの世界を渡るための便宜としての道具でしかなく、道具そのものは目的でも究極でもなく、それ自体の優劣などには実際にはそこまでの価値をおいていない。
しかしそれはあくまで仏教の立場であって、ある観念(神など)の実在を基準にして内部論理を立てる立場もあることはわかる。またそれらの考え方の濃度や観念は人の数ほどありうるのだから、僕としてもあくまで個人の論理を提示するだけだし、「結局どうなのか」は、それぞれみなさん自由に学び考えていかれればよいのだろう。