प्रज्ञापारमिता
~仏教のおはなし~

欲すべきもの

'18.07.16

黄金律、つまり黄金のように素晴らしいルール、というのがあります。それは、「己の欲するところを人に施せ」というものです。聖書に出てきます。
一方で、銀律というものもあります。これは「己の欲しないことを他人に施すことなかれ」です。仏教経典に出ています。

このふたつ、黄金と銀と呼ばれるように、前者の方が優れていると一般には言われていますが、よく考えると必ずしもそうは言えないと思うのです。たとえば、自分が欲するものが果たして他人にとっても好ましいものでしょうか。ひとりよがりで「これが素晴らしい」と思って人に押しつけるように物をあげたりしても、きっと相手にとっては迷惑であったり、時には害を及ぼすこともあり得るのです。
断っても断ってもしつこく勧誘してくるセールスマンみたいなものです。

しかし後者の銀律のほうは、自分がされたくないことを立ち止まって考えてみて、それを他人にしない、という賢明さがあります。これは目立たないことですが、より深い態度だと言えるでしょう。

しかし実はこの両方とも、まだまだなのです。もう一歩、深い考えがあるのではないでしょうか。それは、「他者の欲することを彼に施せ」です。これを白金律と言うそうです。
ここには、「自分が欲する」や「自分がされたくない」という「自分が」という心を離れて、まず相手の心を見つめよう、という思いがあります。これは黄金律や銀律よりも一段高い考え方です。

しかしだからといって、相手のして欲しそうなことばかりやっていたら、それはきっと相手のためになりません。子育ても同じで、子供の欲しいものを際限なく与えるだけなら結局はその子のためにならないのと同じです
ですから、「他者の欲することを彼に施せ」というのは、その人の欲や感情に沿っていればいいということではなく、その人の心の平安と、より善き人間になっていけるようなことをしてあげなさい、ということなのです。

「でもそれじゃ、相手の欲するものじゃないじゃないか」と思われるかも知れません。しかし、果たしてそうでしょうか。

まず、人は不幸になることを願いません。それを欲することはありません。そしてどう考えても、際限のない欲の追求は不幸への門です。ですから、それを知っているはずの心の奥深くの魂のレベルでは、本当にはそれを求めることはありません。不幸への門だと気づいていないだけで、そこに気づけば際限のない欲などは求めないものです。
人は煩悩によって欲望によって何かを欲することがありますが、私たちはそれを相手に与えるのではなく、よく考えたらそれは不幸への入り口であるとお互いにそこに気づき、本当には何を求めるべきなのか、幸せへの門は何であるのかをよく考えて、人として欲するべきものをちゃんと欲するように、また与えるようにしなくてはなりません。

では、その本当に求めなくてはならないもの、相手に与えなくてはならないものとは、なんでしょうか。
それは簡単に答えられます。慈悲の心、困難なときにこそそばにいてあげること、見捨てないこと、一緒に楽しみ泣く心、排除しないこと、つまり、「思いやりの心」です。
これがあれば、人は助け合って生きていけます。善き人間になれます。誰であれ求めているものです。これをお互いに与えあうことこそが、「他者の欲することを彼に施せ」ということの本当の意味なのです。