प्रज्ञापारमिता
~仏教のおはなし~

苦行

'18.05.15

「仏教では苦行はいけない」という言い方をよくされて、まぁそれはそうなんだけど、そも苦行とは何であるか、ということの意味が考えられずに、言葉だけが独り歩きしてる時がある。

まず苦行というのは、いわゆるインドにおけるそれであって、一生の間ずーっと腕を下げないとか、木に吊されているとか、頭を埋めて呼吸を制限するとか、いやむしろ全身ごと埋まるとか、鋭い茨の上で寝起きするとか、断食しながら心臓を止めるとか、基本的にはそういうレベルの話なわけだ。日本で行われている修行は決して苦行ではない。あんなもんを苦行と言ってしまうと、釈尊の一生も苦行になるやん。

次にそもそも論というか、原理的に考えてみると、「苦行」というものは「これだ」とマニュアル的に規定できるのかどうか、ということ。実はそれが苦行であるか否かというのは、人によって違う。たとえば禁酒など考えてみればわかりやすいけれど、アル中にとっては地獄だろうけど、僕みたいに飲まない人間にしてみたら何てこともない。
万事そういうものであって、ある事象が苦行であるかどうかは、人それぞれ。一概には言えない。断食しても身体を傷つけても、そこにエクスタシーを感じるくらいの人にとっては、そんなもの苦行でもないし、むしろ逆の偏向だったりするかも知れない。

結局、「苦行は無意味だ」というのはその通りなのだけれど、この言葉自体は看板に過ぎなくて、その内実は各人それぞれが仏教というものを学びながら、自分自身をしっかり見つめて、自分で基準を考えていかなくてはならない。
仏教はドグマでも契約宗教でもないのであって、まずは「あなたがどうあるか」が問われる道なのだ。そこが第一歩だ。そうしてその中で、「自分」というものが何であるか、どういう意味で自分というものがあると言えるのか、苦行にせよ何にせよ、「誰がそれを行えるというのか」、そこに至れば、さぁ、そこからが第二歩になる。