प्रज्ञापारमिता
~仏教のおはなし~

 ・ 電気?

'18.08.23

もし「精神」「心」なるものが単なる電気信号なら、いったい物理法則に立脚する電気がなぜぐずぐず悩むことが可能なのか、というか、そのように腹に落としているのなら、もはや何にせよ「悩む」ことの不合理さにさっさと気づいて悩むのをやめざるをえなくなるし、そもそも死ねば電気信号の基盤たる脳などないのだから、死ぬ事への不安などどうしてあり得るのだろうか。そこの曖昧さがよくわからない。
電気信号だけなら、生きてるうちは死んでないのだから不安に思う必要はないし。死ねば端的な無であって、その時いったい誰が何を不安に思えるというのか。

さてそもそも、「思考は単なる電気信号」だと言うとき、そう考えている思考は本当に単なる電気信号なのか。電気信号は電気信号であることを自己認識しているとき、いったい思考の視点はどうなっているのだろう。何が客観で何が主観なのか、それとも神秘的直感なのか、もし本当に思考や精神が単なる電気信号なのであれば、僕にとっては「神が世界を創造した」以上の奇跡というか、説明の付かない神秘的事態に見えてしまう。実際、論理を超える世界に足を踏み込んでいくように思える。

そうして科学はたぶん、精神の「起源」を物あるいは客観的数量化できるものとして観測もできないだろうし、実証もできないと思うのだよね。既にあるものの変化を計測することと推移の予測しか恐らく、どこまで行ってもきっと出来ないのだろうと思う。そういう枠組みのものなのだから。

じゃあ「思考や精神とは何なのか、永遠のブラックボックスなのか」というとそうではなくて、今あなたが思考してるそのそれそのものとして露顕しとるがな、と。
それは思考の客観的対象なのではなく、「  」としか言い得ない、しかし露顕して明らかな「  」じゃないか。
なんの難しいことがあろうか。そこから始めれば、そのうち掴めてくるんじゃないかと。最初は何とはなしに、だとしても。