प्रज्ञापारमिता
~仏教のおはなし~

'18.01.30

住職になってわかったことは、「死ぬのが怖い」と考えている高齢者が意外に多かったこと。口では「いつ死んでもいい」「十分」「私は大丈夫」と言いながら、よくよく聞いていくと不安でどうしようもないのを、見ないようにしているか、「その時」まで先延ばしにして思考停止しているか、あるいは諦めているか(これ達観という人もいるが、ちょっと違うかもね)、目先の仕事や床屋談義で覆い隠しているか、いずれにしても正面から解決した、という人は少数派なんだな、と。つまり生死観がないので、向き合い方もわからない、ということだと思う。
これは「死」を考えるには状況に頭が追いつかないというか、リアルに目の前過ぎて冷静でいられない、あるいは長年の固定観念を解体できなくなってしまっている、その他いろいろな要因があるでしょうが、根本的に「死ぬのが怖い」「不安だ」という感情が先に立ってしまっているからなのでしょうか…? このあたり人によるでしょうが、どうも途方に暮れているだけではないのかな、と。

「解決」「生死観」ったって、別に何かの宗教にそれを丸投げして思想をコピーして安心しろ、ってことじゃなく(これが必要な段階の人もおります)、どんな思想・宗教の者であれ、死ぬことは死ぬわけだから、その事実を自分自身がどう考えて腹に落とし込むか、に尽きる。「死んだら何もなくなるさ」ってのも、所詮は刷り込まれた近代的概念であって、ある意味で宗教とおなじ信念体系に過ぎないのであり、それをコピーしてそこで止まるならば、何の解決にもならない。
そもそも思考じたいがコピー&ペーストとその作用なんだけれど、せめてそれをわかった上でそれらを扱うこと、オウム返しで思考停止せずに自分で考えること、それが重要。だとすれば、正直なところ、それなりの時間が必要。「こういうことは年を取ってから」じゃ間に合わない。人生経験をいくら積んでもコピペの材料が積みあがっているだけで、それだけだったら却って邪魔にすらなる。

だから、今から、死についてラディカルに考えよう。たとえ今20歳であったとしても、たぶん時間は足りないよ。