バグ
'18.03.24アートマンなどあるものか。無始無終の不滅の魂などあるものか。
さて。
この世界はバグによって成り立っている。
僕らが今ここにいることは、バグだ。
このバグは、美しく苦しく楽しく寂しい、様々な体験を提供する。
それらはすべて、バグによって出現した。
つまり、体験している「私」もバグの所産。
さてさて。
このバグは一見すると整合性を持っているが、細かく観察すれば、ちょっとおかしい。
とことん考えてみれば、論理的に目の前の現象は成り立たないはずである。
しかし現に成り立っている。
つまり、どこかで回路が間違ってしまっていて、本来あるはずのないものがあってしまっている。ゆえにこの世のすべてはバグである。
で。
このバグはもうバグとしてあってしまってるのだけれど、人はバグであることに気づかないので、この、突き詰めるとちょっと道理に合わない現象世界をどう整合性を持って合理的に解釈するかに腐心する。
しかし帳簿が合わない。
合わせるにはどうしたらいいか。
形而上学の登場である。
想定された何かをおっ被せて解釈すれば、大抵は解決する。
矛盾はすべてブラックボックスに押し込めば、残りは美しく整合的な世界。
いわゆる宗教も、これだろう。
しかしこのブラックボックスを拒否したのが、仏教である。
バグを誤魔化さず、バグの解消に向かった。
バグが解消されると、現象世界は消える。
私もまた。
アートマンなどあるものか。無始無終の不滅の魂などあるものか。
さてしかし、バグを解消すると世界は消えるのだが、仮にそうなったとしても、現にバグの世界は相変わらず他者において存在していて、仮設されたアートマンが流転している。
その流転は恐ろしく、苦である。
この「私」、いまだバグにある私に「すべてはバグだ、騙されるな」と教えてくれたのは誰であろうか。その人がいなければ、私は未来永劫、仮設された時間の中を仮設されたアートマンとして、溺れ続けただろう。
だからこそ大乗仏教は、自己のバグを解消させてしまわない。バグがなくなると、バグの世界は消えるのだから。バグのネットワークにいなくては、バグに働きかけられない。
それが、菩薩だ。
バグの世界において、菩薩において、ネットワーク(縁起)はある。アートマンはある。魂はある。輪廻はある。すべてがある。
あるのだ。
ここにおいて、すべての形而上学や宗教は「現実的に成立する」。
それぞれの宗教には「往き先」がある。そしてそれらは、実際にあるのだろう。クリスチャンやムスリムは、パラダイスか地獄に赴くであろう。彼らのアートマンは、世界をそのように「バグ付け」しているのだから、それらは「ある」。
仏教徒であれば、善悪業によって善趣か悪趣に赴くであろう。世界をそのように「バグ付け」しているのだから、それらは「ある」。
その主体であるアートマン、魂も当然、厳然と、ある。
このバグ世界が、大乗仏教の輩の住処だ。
だから大乗の徒にとって、アートマンはある。魂はある。世界はある。
ただ、バグの世界だと承知して、バグを修正する手法を知っているかいないか、だけだ。
修正手法を知って、そのように実践すれば、二乗だ。
修正手法をしっかりと知り、その方向でバグ世界に働きかけるのが、菩薩だ。
かつて彼が導かれたように、彼はこの世界で働く。
彼にとって、アートマンはバグだ。
バグであるが、バグである限り、アートマンは、やはりあるのだ。