प्रज्ञापारमिता
~仏教のおはなし~

月指

'18.03.10

月指に迷うと雖も提撕極り無し

教えの方向に迷っても、救われる方法は無数にある。

「請来目録」

…………………………

様々な教え(宗教・思想・科学主義・無神論・世俗主義…等々)が世界中に溢れていて、人はそのすべてを吟味検討して選択することはできない。縁によって何かに辿り着いて、自分の狭い知見に従って、何かを選択(意識的に、あるいは無意識に)するのみである。
問題は、そういう狭い知見に従っている不完全さに対する謙虚さが無く、自分の立脚するものがすべてであるかのように、他者を判断して批判をすることだ。無神経な布教とはこういうことを言う。「それは偽物だ。これが真理だ、さぁこれを信じて救われよ」「そんなもの非科学的だ」云々。

あなたはどれだけのことを知っているのか。自分が立脚しているその場所のことさえも知ってはいないのではないか。

そうやって、少しでもモノを考えるならば、どうして安易に何かが言えるだろうか。必ず人は、客観・世間における他者との出会いにおいては、すべての思想について若干の留保をつけざるを得ない。自分の信念ですら、それは普遍客観の裏付けは絶対にあり得ないのだ。そもそも、それは語られた言語じゃないか。言語の機能において、真理そのものは決して表示できない。それは、月をさす指でしかない。

そうして、だからこそというべきか、あらゆる立場において、この言語や観念の不完全さを意識しているならば、いずこにも一種の真理性が胚胎してくる可能性がある。救われる契機も現成してくる可能性がある。
逆にそれを意識しないならば、一切はすべてガラクタの虚言である。