प्रज्ञापारमिता
~仏教のおはなし~

LOGOS

'18.03.13

深夜の独り言。寝言。

ヨハネの福音書冒頭、「初めに、ことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった」。

はじめにロゴスありき。ロゴスが神ならば、たしかに創造神である。間違いない。あとはその解釈の問題(ロゴスは善きものか、妄念の起点か、ただの現象か)であり、世界形成の構造認識は、実は仏教とそう矛盾してないとも言える。
ロゴスの展開、つまり言語概念の形成過程、言い換えれば認識世界の成立、存在の分節過程を聖書的に述べるならば、それはもちろん『創世記』である。

…………………

1:1
はじめに神は天と地とを創造された。
1:2
地は形なく、むなしく、やみが淵のおもてにあり、神の霊が水のおもてをおおっていた。
1:3
神は「光あれ」と言われた。すると光があった。
1:4
神はその光を見て、良しとされた。神はその光とやみとを分けられた。
1:12
地は青草と、種類にしたがって種をもつ草と、種類にしたがって種のある実を結ぶ木とをはえさせた。神は見て、良しとされた。
1:18
昼と夜とをつかさどらせ、光とやみとを分けさせられた。神は見て、良しとされた。
1:21
神は海の大いなる獣と、水に群がるすべての動く生き物とを、種類にしたがって創造し、また翼のあるすべての鳥を、種類にしたがって創造された。神は見て、良しとされた。
1:25
神は地の獣を種類にしたがい、家畜を種類にしたがい、また地に這うすべての物を種類にしたがって造られた。神は見て、良しとされた。
2:3
神はその第七日を祝福して、これを聖別された。神がこの日に、そのすべての創造のわざを終って休まれたからである。

…………………

神はこのロゴスによる世界を見て「良し」とされた。

この美しき世界形成の過程、つまりロゴスの展開を、釈尊は無明だと考えた。
つまり、世界生成の構造については、仏教でも聖書でも、言わんとすることはそんなに違わない。ロゴスを善きものとして、ロゴスから遊離することを罪と考えるか、ロゴスそのものを無明として、むしろそのロゴスの虚構性を暴くべきかという、その立場の違いだ。