प्रज्ञापारमिता
~仏教のおはなし~

'21.03.08

信心とは決定堅固にして退失なからんと欲うがための故にこの心を発す
これに十種あり
一には澄浄の義 二には決定の義
三には歓喜の義 四には無厭の義 
五には随喜の義 六には尊重の義 
七には随順の義 八には讚歎の義 
九には不壊の義 十には愛楽の義なり

「三昧耶戒序」

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信心、信仰と言うけれど、いったい仏教における「信」とは何であるか。
実は一般に思われている信仰、「神の存在を信じる」「天国や地獄を信じる」「輪廻を信じる」あるいは「あの人を信じている」というのとはちょっと違うのが、仏教における「信」である。
上記、弘法大師の言葉にその定義十種類を上げたけれども、もっとも基本になるのは第一の「澄浄」であり、簡単に言えば「心が澄み渡る・明澄になる」ことだ。「信を獲得する」というのは、客観的に証明できない外部の何者かを信じようとすることではない。心を澄浄とすることに尽きる。
仏法は「信を以て能入とす」と言うが、この心を清くすることこそ仏教への第一歩であり、信の役割である。これ逆に言えば最初の条件であって、その信をもって定に進み、慧に至るのが仏道である。もちろん最初の段階では「ブッダの教えを信じる」という一般的な意味での信も重要だけれど、それはあくまで聞思の検討を前提とした信であり、そこから修に進む点では「信→定→慧」と同じ事である。慧の段階では一般的な意味での信は無用であるのは当然のことだ(澄浄は持続しているが)。

さてでは、澄浄としての信、はいったいどうやって獲得するのであるか。これは簡単な問いである。

「信→定→慧」という階梯を上に示したが、この構図をより実践的に言い換えると、「戒→定→慧」であることは明白であって、戒を保持した生活によって、心澄浄となり、それが定・修の因となり、慧の因となる。
つまり信澄浄とは戒学にほかならず、「不合理ゆえに我信ず」的な観念とはまったく関係がなく、いわば当然の、ダルマによる身と口と心の陶冶であるということである。

これなくして仏道は始まらず、これなくして修行も意味をなさず、これなくして慧など求めても虚しいものにしかならない。
そうしてでは、その最重要の第一歩たる戒学とは何かと言うならば、十善業道、つまり十善戒が根本である。これによって心を陶冶し、身と口を陶冶し、心澄浄を育てながら、それを常に平行しながら、定・修をしていくのが、仏教である。